【大紀元日本3月22日】3月11日、大地震発生時、私は東京にある会社で勤務中だった。高層ビルの17階にいたが、その揺れは半端ではなかった。従業員たちは机の下に潜り込み、隣にあった椅子は滑ってガタガタと音を立てた。衣服をかけていたハンガーがドーンと倒れた。同僚は、「気持ち悪い」と何度も口にした。
揺れがある程度収まり、また仕事を始めようとしたが、その後何回も余震が続き、同僚たちは落ち着かなかった。ビルのスピーカーからエレベーターが停止したとの知らせがあり、津波の恐れがあるのでビルの外に出ないようにとのアナウンスがあった。
午後5時半過ぎ、電車はすべて運休。残りの作業を片づけてから、帰宅しようとしてもどうやって帰れるか分からない。ある同僚がいいアイディアを口にした。「チャリ(自転車)を買って、それに乗って帰ろう」。しかし、チャリは既に売り切れだった。何人かの同僚は電車が復旧してから帰るといい、食品を買ってきた。家族に電話がつながらず、状況が分からないこと、そして彼らが私の安否を心配しているだろうと思った私は、グーグルで会社から自宅までの大まかな地図を印刷し、出発した。
青物横丁から品川まで徒歩で40分。大通りの両側は、歩く人でいっぱいだった。コンビニに入ってみると、パンとおにぎりは売り切れ。品川駅を通ってから、しばらく歩くと三田駅が見えた。またしばらく歩くと、着いたのは大門駅。吸い込まれるように大門の駅に入り、駅の係員に聞いたら、電車がすぐ出発するという。歩いておよそ1時間45分後、私はやっと大江戸線に乗ることができた。
電車に乗っている時、地震後はじめて娘からのメールを受信。「ママ大丈夫?」涙がこぼれそうになった。そして急いで、上野御徒町に向かっていると家族にメールで連絡。大江戸線に乗って、40分くらい経って上野御徒町に到着した。地上に上がってくると、寒さを感じた。以前自転車で来たことがあるから、自宅までの道はばっちり覚えている。上野駅に目をやると、人波でごった返していた。人波に押されながら、私は先を急いだ。突然、目の前に主人が自転車を押しながら、登場。上野御徒町に向かうという私のメールを受信してから、携帯に電話しても、ずっとつながらなかったので、とりあえず御徒町まで行ってみようと思ったとのこと。ここで会えるなんて、夢に思わなかった。
そして、二人で帰宅。夜7時に会社を出て3時間、帰宅したのは10時だった。テレビを見ると、たくさんの人が帰宅難民になっていた。何時間かかってもよいから家族に会いたいと思って、出発した自分は正解だったと感じた。
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