【古典の味わい】蘇武持節(蘇武、節を持す)『蒙求』より

 前漢蘇武、字子卿、杜陵人。武帝時、持節使匈奴。単于欲降之、乃幽武置大窖中、絶不飲食。天雨雪。武臥齧雪、与旃毛并咽之、数日不死。匈奴以為神、乃徒武北海上、使牧羝。曰「羝乳乃得帰」。武杖漢節、牧羊、臥起操持、節旄尽落。昭帝立。匈奴与漢和親。漢求武等。匈奴詭言「武死」。常恵教漢使者言。「天子射上林中得雁。足有係帛書、言在某沢中」。由是得還。拝為典属国。武留匈奴十九歳。始以強壮出、及還鬚髪尽白。

 前漢の蘇武(そぶ)、字(あざな)は子卿といった。漢の武帝の時代に、天子より賜った印である節(せつ)を携えて、北方の異民族である匈奴(きょうど)へ使者として赴いた。匈奴の王である単于(ぜんう)は、蘇武を帰順させようとしたが拒否したため、これを捕らえて大きな穴に幽閉し、飲食を与えなかった。やがて雪が降った。蘇武は、穴の中で臥しながら雪を噛み、毛織物の毛をむしって飲み込んでいた。数日たっても死ななかったのを不思議に思った匈奴は、蘇武を北海(バイカル湖)のほとりに移して、牡羊を飼わせた。「この牡羊が子を産んで乳を出したら、お前を漢土へ帰してやる」と無理難題をいう。蘇武は、天子の印である節を手放さず、これで杖着くように体を支えながら、牡羊を飼っていた。節の先の飾り毛は、ほとんど抜けてしまった。

 武帝崩じ、次代の昭帝が立つと、敵対していた匈奴は漢に和睦を求めるようになった。漢は、蘇武の返還を求めた。匈奴は「蘇武は死んだ」と嘘をついた。しかし、蘇武とともに来て、匈奴に帰順していた常恵(じょうけい)が、漢からの使者にこのように言わせた。「我が天子が、狩場で雁を射落としたところ、その足に薄絹の手紙がついていた。ある沢地に(わたくし蘇武が)いると書いてあった」。匈奴の嘘を見破ったので、蘇武は帰国できた。昭帝は、蘇武を「典属国」という諸外国からの使者の応対係に任命した。蘇武が匈奴に抑留されること、なんと19年。国を出立したときは壮年の働き盛りであったが、帰国した今では、ひげも髪も真っ白になっていた。(大意、以上)

 「蘇武持節」も「雁書」も中国文化のなかでは常識的な教養ですが、それが広く知られているということは、そうした不変の忠節を理想としたくなるような希少性をもっていたからでもあります。

 19年にわたる抑留でみせた蘇武の忠臣ぶりは、天子から賜った節を肌身離さず持つあまり、その飾り毛が抜け落ちるところに象徴されています。一方に、もとは漢の武人で、名将・李広を祖父にもつ李陵(りりょう)がいました。

 李陵は、匈奴との戦いに敗れて捕虜となり、今では匈奴に厚遇されていましたが、その李陵が、節を曲げない蘇武を陰ながら支えていたのです。彼らの友情については、中島敦の小説『李陵』でよく知られています。

 『蒙求(もうぎゅう)』という書物は、8世紀前半の成立と考えられますが、その著者である李翰(りかん)という人物もふくめて、よく分っていません。ただ、初学者用のテキストとして、中国ではもちろん、日本でも広く読まれていました。

(諭)