まだ知らぬ人もありけり東路(あづまぢ)にわれも行きてぞ住むべかりける(後撰集)
歌意「私の息子が死んだことを、まだ知らない人が東国にはいたらしい。ああ、そうであるならば、私もそんな東国へ行って住めばよかったのかなあ」。
作者は藤原実頼(ふじわらのさねより 900~970)。実頼は、晩年には関白太政大臣にまで昇り、後の藤原道長(966~1027)を頂点とする藤原氏最盛期への基礎を築きます。
その実頼にも、とても悲しいことがありました。実頼の長男である藤原敦敏(あつとし)が947年、疫病のため30歳の若さで亡くなります。敦敏は有能で、周囲の評判も非常に良い人物でした。父・実頼にしてみれば、将来の大成を信じて疑わない、自慢の息子であったに違いありません。
実頼は妻(藤原時平の娘)とともに、日々悲しみに暮れていました。そんな実頼のもとへ、ある日、東国から敦敏への献上品として良馬が届けられます。その馬を見て、息子の死の実感が再びわきあがった実頼は、いっそ自分もその東国へ行っていれば、つまり「我が子の死を知らない人のいる遠い国」へ行って住んでいたならば、きっと訃報を聞かずにすんだだろう。いや、敦敏が死んだという事実そのものが消えてしまうのではないか。いま気持ちが弱くなっている実頼は、そんなところまで果てしなく空想するのです。
子に先立たれた親の痛切な心情が、現代の私たちにも痛いほど伝わってくる一首ですね。平安末期に成立したという『古本説話集』に、これに関する逸話が残されていて、それによると、東国から敦敏へ馬を贈ったのは「陸奥守(むつのかみ)の妻となった、かつての敦敏の乳母(めのと)」だそうです。冒頭の実頼の歌は、馬と手紙を亡き息子に送ってきた乳母への礼状に添えた一首、という設定になっています。
説話なので史実からは遠くなっているでしょうが、そこに生きた人々の体温がより感じられるようなので、私は、この話のまま理解するほうを好みます。
古い和歌や古典を鑑賞しながら、つくづく思うのですが、昔は(近代に至るまでも)いわゆる現代医療がない時代でしたので、乳幼児の死亡率は非常に高く、成人してからでも病気であっけなく命を落とす危険が、いつでも、誰にでもあったことは否めません。
ただし、またこうも思います。現代医療の役目を否定するのではありませんが、人間が本来もつ自然な生命力に対して、時として現代医療は相当な「無理」を強いているのではないか、例えば、死ぬべき時に死ぬことさえ認めない過剰な延命措置をしているのではないか、と危惧するのです。
生命は、もちろん大切なものです。では、その「いのちを惜しむ」とは、どういうことでしょうか。命あるかぎり誠実に生き、人のために働き、寿命が尽きて死ぬべき時が来たら、きちんと死ぬ。そういう意味においては「現代人よりも昔の人々のほうが、人間本来の意味において健康だったのだろう」と、そんなことも、たまに思います。
今年(こぞ)もまた頬に触れ散る桜花あと幾たびの我がいのちかな
(敏)
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