「山川異域、風月同天」に隠された物語【雅(みやび)を語る】

2020年、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、日本から続々と中国に届く支援物資には「山川異域、風月同天」という漢詩が添えられ、大きな話題を呼び起こしました。

支援物資に添えられた「青山一道同雲雨,明月何曾是両郷」や「豈曰無衣、与子同裳」、「山川異域、風月同天」などの漢詩は、中国人でさえもあまりその出処を知らないのです。

「青山一道同雲雨,明月何曾是両鄉」は唐代詩人の王昌齢の『送柴侍御』に記載されている一節で、「住むところは異なるが,同じ世界に住む者として共に困難を乗り越えていこう」という意味で、王昌齢が友人を慰める時に言った言葉です。

「豈曰無衣、与子同裳」は『詩経・秦風・無衣』に記載され、秦軍戦士が出征前に詠んだ戦歌で、戦士が互いに励まし合い、命を顧みず、勇敢で恐れない精神を表現しています。

そして、最も話題となったのが「山川異域、風月同天」という一節です。なぜなら、これは日本と中国の深いつながりを示しているからです。

約1300年前、中国はまだ唐の時代で、日本もまだ奈良の時代のことでした。長屋王は仏法に熱心で、多くの遣唐使を中国に遣わし、そして、千着の袈裟を贈りました。この千着の袈裟の背中にはすべて「山川異域、風月同天」の詩が刺繡されていたのです。「住む場所は異なろうとも、風月の営みは同じ空の下でつながっている」という意味のこの詩を見て、多くの僧が感動しました。

しかし、中国と日本の間には広い海が隔たっているため、道は険しく、多くの困難に立ち向かわなければならず、誰も日本へ赴く勇気はありませんでした。

この時、ある僧が日本へ赴くことを決意しました。この人こそ、かの有名な鑑真です。しかし、渡日の過程は困難に満ちていました。『唐大和上東征伝』によると、鑑真併せて6回東に渡ったが、前の5回はすべて失敗しました。嵐に遭遇して船が死んだり、海上で事故に遭ったり、密告されて逮捕されたりなど、数々の困難の中、ともに渡日するはずの弟子たちも次々と命を落としていったのです。

鑑真、渡日の旅(パブリックドメイン)

それでも鑑真は渡日を諦めず、身体的な苦しみもあるため、鑑真の両目は完全に失明してしまいました。そして、6回目の渡日、753年にようやく日本に辿り着き、あれこれ12年ほどかかりました。

鑑真第六回渡海図(パブリックドメイン)

日本に辿り着いた年、鑑真はすでに60歳を超えていました。鑑真は奈良で唐招提寺を開基し、戒壇を設置し、仏法を説きます。また、彫刻や薬草の造詣も深かったため、日本にこれらの知識も伝え、さらには貧しい人や孤児のために悲田院をも作りました。

したがって、この「山川異域、風月同天」には、千年前の日本と中国の深い仲と暖かい人情が含まれているのです。

 

(翻訳編集:華山律)

雅蘭