周公は一体誰なのか?【雅(みやび)を語る】

人は眠る時に夢を見ます。夢占いや夢を解釈する本として『周公解夢(しゅうこうかいむ)』が有名です。また、かの孔子も、「夢に旦(周公)のことを見なかった(吾不復夢見周公)ので年を取った」と嘆いた事もあるほどでした。では、周公とは一体誰なのでしょうか?

周公は文王の息子で、姓は姫、名は旦です。以前お話ししましたが、姫という姓は黄帝の末裔です。文王には10人の息子がいて、周公は四男です。次男はあの殷を滅ぼし、中国史上最も長く続いた周王朝を開いた武王です。

では、周王朝はなぜ約790年も続いたのでしょうか。礼学と楽学の基礎を形作り、世間に普及した周公のおかげだという説が多く、古代中国を「礼儀の国」と呼ぶほど、周王朝の礼学は後世に大きな影響を及ぼしました。これにより、孔子は非常に周公を敬い、生涯、周王朝の礼学を復興させようと努めてきたのです。では、周公はなぜ礼学を制定したのでしょうか?

史料によると、周王朝が成立した後、武王は日夜問わず政治に励み、2年目に病に倒れ、その翌年に亡くなったといいます。その後、武王の息子・成王が王位を継ぎますが、年少であるため、政(まつりごと)ができず、これにより、周公が摂政となって、まだ内乱が続いている周王朝を安定させました。

周王朝の前には殷と夏が存在しました。この2つの王朝はどちらも長い間継続し、神が君主に権力を授けたと信じられています。では、君主の権力が神から授かったものなら、どうして滅びたのでしょうか。そこで、「周雖旧邦、其命維新」の考えが生まれたのです。つまり、古国時代から続き、今の周王朝が生まれたわけですが、周王朝は絶えず神の要求に応えてこそ、天命を享受できるのだということです。これにより、周王朝では、「敬德保民」の思想が生み出されました。天命を受けて君主となりましたが、自らの品徳や徳行を重んじ、民を愛し、慈悲のある政治を執行しなければならないという心構えです。

後世のために、周公は文物・習俗・政治制度、特に官位制度などを書物にまとめました。この書物こそ、後に代々の王朝の行政基盤となった『周礼』です。

 

(翻訳編集:華山律)

雅蘭