周公が創り出した「礼」(礼儀)と「楽」(音楽)の文化ーー礼楽文化は、中国の何千年もの文化に深く影響しており、かの孔子も周公を非常に敬っていました。
本来、周公こそ礼楽文化を開いた第一人者で、孔子はその継承者でしかありません。ではなぜ、多くの孔子廟が建てられ、孔子を祭るイベントがあるのに、周公のはないのでしょうか。
実は、唐の時代以前では、主に周公が祭られ、廟も建てられ、孔子は脇役でした。周公を祭らなくなった理由は、唐の時代に、中国史上唯一の女帝・武則天の登場と深くかかわっています。
武という姓は姫という姓から派生したもので、昔、周王朝の国姓が姫でした。そのため、武則天は即位を正当化するために、自分は周王家の末裔と称し、国号も周に変えました。
705年、80過ぎの武則天は位を退かせられ、同年12月に死去しました。武則天の周王朝が滅びた後、国号は唐に戻り、そして、武則天の影響を取り除くため、当時の皇帝・玄宗は、孔子を「文宣王」と追贈しました。さらに周公ではなく孔子を祭るよう、勅命まで出したため、それ以降、孔子廟が増えたのです。
唐の時代、孔子廟は全国で1千宇(廟や寺院の数え方)余り建てられ、明王朝になると、1560宇以上に増加しました。隋唐の時期の文化は他国に伝わったため、朝鮮や韓国、日本、ベトナム、台湾など、東アジア文化圏全体に分布しています。
晩年の孔子は「甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公」(「ああ、私もひどく年をとったものだ。周公が夢に現れなくなって、もうどれだけになることか」)という言葉を残しており、それほど、孔子は周公を尊敬し、生涯、周公が残した礼楽文化を追随しました。
誰を祭るにせよ、周公も孔子も、礼儀や音楽を通じて、己の心を修め、人々の道徳を向上させるという主旨をもって、生涯を尽くしました。尊敬すべき人物であることに変わりないでしょう。
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