マニエリスムを画風として表すことに関して、芸術家たちの間で多くの論争がありました。第一次世界大戦が勃発する前、美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンは、16世紀頃のイタリアの芸術作品に分類されない作品を「マニエリスム」と言い表していました。
マニエリスムには、ルネサンス期の自然主義的な写実性や、人間性の発露、普遍的な美との調和などのような特徴もなければ、その後のバロック芸術の華麗な画風もありません。英国の美術史家は、マニエリスムの定義と特質を分類することが難しく、芸術への影響も不明確であると考えています。
マニエリスム(Mannerism)はイタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉で、当時、ミケランジェロの手法・様式を過度に模倣する生気の欠けた作品を意味しており、この考え方は19世紀まで引き継がれました。
ルネサンス期における人体の正確な比率と美への追及などといった古典的な様式がピークに達したころ、1520年にラファエロが亡くなり、1527年にローマが神聖ローマ帝国に侵攻されることによって、イタリアの政治・経済が大きな打撃を受け、その後、教会の権威が崩壊し、批判されるようになりました。
開拓や植民、探検が盛んになった大航海時代では、一部の画家たちは構図を変えることを試み始め、本来の古典的様式に従わず、人体のバランスを故意に伸ばしたりなど抽象的な表現にしましたが、17世紀頃から批判の声が高まり、反古典的で「マニエリスム」であると非難されるようになりました。
イタリアの建築家・画家であったジュリオ・ロマーノは、16歳の時ラファエロのもとで修行を始め、ラファエロの死後、引き続き彼の未完成の作品に取り組みました。しかし、ラファエロが設計していたヴァチカン宮殿の壁画の一部は、ロマーノが手を加えることにより、本来、ラファエロが描きたいものと少し異なってしまいました。
ロマーノはラファエロの他の弟子たちと共に壁画を完成させましたが、その壁画はルネサンス期の崇高な気質と古典的な様式に背きました。1524年、ロマーノはマントヴァのゴンザーガ家に招かれ、夏の離宮であるパラッツォ・デル・テの建築家に任命され、助手たちと多くの作品を完成させましたが、しかし、それらも師のラファエロの画風とは全く異なります。
1人の画家の作品制作は画家の技術や経験、心境、そして、周りの環境はもちろん非常に大事なことですが、芸術境地の向上やその人の人格、道徳、内面の修養なども、それ以上に重要な要素なのです。
(作者・謝春華/翻訳編集・天野秀)
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