【大紀元日本11月24日】中国の情報には国情や民族性もあってか、しばしば大仰な誇張、例えば「白髪三千丈」の類がありますが、そのような点を割引いても、現在の中国で発生している一連の社会現象は、残念ながら異常としか言いようがありません。
中国には「百年河清を待つ」との諺がありますし、「愚公山を移す」という言葉もありますが、最近の黄河の断流の話を聞くと、本当に心配になります。長江の水を黄河に引くのも壮大な計画ですが、そもそも全国的にこれほどの水不足を招来したのは中央政府による無秩序な開発に運悪く地球温暖化が加わった結果でしょう。
中国では夏の時代から水を制するものが帝王になりました。その意味で現代中国が治水に
情熱を傾けるのは当然でしょう。しかし長江に三峡ダムを築く結果として、天文学的な土砂の堆積を生じることも危惧されます。極論すれば、後世に大きな禍根を残す事もあり得ましょう。 一方、黄河という文明の母とも言うべき大河に断流が発生するのは天然の問題のみならず人為的な原因もあるのではないでしょうか?つまり、客観的に見て、人口が増え過ぎた結果として発生したのではないでしょうか?以前、陳慕華という女性が部長の頃厳格に一人っ子政策を進めた結果、男児が増え、女児の出生率が低くなったことがありましたね。女性の数が減れば当然長期的には人口が減少しますが、そこまで極端な政策を採らざるを得なかった真の原因は毛主席に代表される中国共産党にあります。本来中国は地大物博国家であり数億の民が暮らすなら直ぐにも米国並みに発展出来る可能性を持っていたにも拘らず、結果として一人っ子政策を強行せざるを得なくなりました。大躍進、文化大革命がなければ少なくとも数十年を浪費せず本来の大国に戻った筈です。これらの現象は善悪を別として全て政権党である中国共産党の責任です。歴代王朝のなかでも現政権ほど人民を犠牲にした為政者はないでしょう。勿論、中国共産党に完璧を求めるのは酷でしょうが、大躍進や文化大革命でどれ程の人命が失われたのか流石の当局も公表出来ないようですね。朝鮮動乱に際し数十万の志願兵と称された人民解放軍兵士が失われ、ヴェトナム侵攻でも十万を超える将兵が亡くなったと聞いています。国家と個々の人民とが必ずしも共通の利害を持てないことは理解していますが、さりとてカンボジアのポルポト政権を支援したのも中国でした。これらの政策は全て正しかったのでしょうか?私にはそうは思えません。
勿論、中国は大国です。善悪は別として匈奴の昔から夷を以って夷を制す国策があり、しかも恐らくは3千年間に根づいた牢固とした官僚主義があります。国家が全て善であるべきとは無理な注文ですが、果たして現在の為政者達が建国以来採ってきた政策が全て無謬のものであったか極めて疑問です。試行錯誤も必要悪という弁解もあるでしょうが、飽く迄程度の問題でしょう。仮に、その結果として自国民数千万の民草を犠牲にしたのであれば人類史上空前の悪行になってしまいます。仮に、その間にどのような善政の実績があったにしても人類史上最悪の惨事です。中国共産党に反省する態度は見られませんね。
ソビエト連邦の崩壊に象徴される社会主義の命運は明白です。すでに明らかに資本主義に突入しているにも拘らず為政者が共産党独裁を金科玉条にしているところに中国の悲劇があります。為政者が内憂を外患に転じ、巨大プロジェクトを国威発揚に使うのも昔からどの国でも行われて来ました。中国とて例外ではないでしょう。
要は、為政者の採った政策が本来の目的はどうあれ結果として、人民のための政府ではなく、共産党のための政府を守る結果になっている事に全ての原因があるのではないでしょうか?人民解放軍は党の軍隊ですが、天安門事件では人民に銃口を向け発砲してしまいました。人民のために服務することをモットーとする筈の人民解放軍は党の軍隊ではありますが、暴乱として上層部から鎮圧を命じられた指揮官や将兵のなかで、現場で発砲を拒否した少なからぬ指揮官や下士官兵は闇に葬られてしまったようですが、彼等こそ本来の人民解放軍の鑑だったのではないでしょうか? 日本でも40年ほど前に安保騒動なる事件がありましたが、幸いにも全ての警察現場指揮官が主権在民の理念を忘れず指揮下の警官隊に発砲させない識見を発揮し事なきを得ました。考えてみれば過去の日本が悲惨な敗戦に至ったのも正しく軍部の横暴に遠因がありました。どの国でも軍隊は保守的組織と相場が決っていますが、一衣帯水の中国が同じ轍を踏まないよう願っています。
ロシア革命の端緒となった血の日曜日と天安門事件とは、何がどう違うのか後世の歴史家がどう判断するのか考えると、為政者達に残された時間はもはや多くはないと思います。残念ながら国情から為政者のみが有効な手を打てるのが現在の中国である以上、共産党や国務院等要路の人士の責任の重さには想像を絶するものがあります。本来、聖人とか君子というものは有るべき理想の姿に過ぎず、無謬の為政者というのは中国の長大な歴史の中にすら存在しません。一時期であれば方便として建国の英雄を渇仰することも時として必要な場合もあるでしょうが、刻々と変化する世界にあって、いつまで毛沢東主席の肖像画が天安門に掲げられるとすれば共産党の未来は決して明るいものではないと信じます。一人の老人の遺骸をいつまでも国家を挙げて偶像崇拝の対象にすること自体が既に時代遅れでしょう。現にロシアでも革命記念日が祝日ではなくなり、赤軍に敗れた白軍の将軍夫妻の遺骸が名誉回復されフランスから祖国に戻り埋葬されたと聞いています。レーニン廟の処遇についても墓地に埋葬すべきという意見が増えてきたと聞きました。今や世界の大国である中国が、いつまで古色蒼然とした理念や空想に拘るのは人類全体にとって不幸です。中国共産党は中国民衆の最大幸福を追求するという立党の政治理念を逸脱し、組織の保全に汲々としているのが実態ではないでしょうか?一日も早く鼓腹撃壌とまでは行かずとも9億の農民が安心して生活出来る国を造るのが立党の精紳だった筈ですね。党員6千万と言えば、党員数だけでも大国の人口に匹敵しますが、共産党と人民15億とどちらが大切なのでしょう。
新聞によれば過去に失脚された有名政治家の生誕90年を記念する行事が今秋に人民大会堂で挙行されるそうです。本来なら天安門広場で多くの民衆を集めて行われるべき行事が、皮肉にも人民大会堂で行われるとすれば、共産党中央としては、最早、民意を無視出来ないことを態度で示し、一方、天安門事件の再発だけは何としても避けたいということなのでしょう。しかし、別の見方からすれば、一滴の水から始まり中国の大地を揺るがす滔々たる大河になろうとしている民意を正視せざるを得なくなった同名の国家主席の苦悩が分かるような気がします。確か彼はチベットや奥地の省で実績を挙げ台頭してきた共産党のエリ-トでしたね。鉄の結束を誇る人類史上最大の政治組織である中国共産党から実に500万に及ぶ党員の離脱を、ほんの10年前に誰が予想したでしょう。これこそ新しい動きの魁であり最早誰も止める事は出来ません。 革命という文字は「天命改まる」になりますが、決して流血を伴う必然性はありません。フランス革命やロシア革命とは時代が違います。中国の良識ある人達が主体となって陰惨な粛清や革命とは全く違う形で現代中国の叡智を結集して十九世紀の遺物である共産主義と数千年来の牢固とした官僚組織が結合して出来てしまった怪物から、基本的人権や信教の自由を取り戻し、何れは一党独裁から多党制に移行して公平な選挙を経てより良き近代国家に脱皮される事を祈らずにはおれません。中国の出来事は人類全体に影響を与えます。であれば尚更、いい影響を期待したいものです。