瓦解する中国の情報統制

2006/02/15 更新: 2006/02/15

【大紀元日本2月15日】自由主義諸国では、為政者を選ぶことが国民の義務であり権利である。通常であれば選挙の結果、国民が選んだ政党が為政者になるのが原則となる。その一方で、政府に対する遠慮呵責の無い批判が許されていることも事実であり、マスコミを含め政府を誉めるのは余程の場合であり、むしろ批判攻撃する方が正論の如く見られている。為政者も国民の批判に曝される結果、政策においても衆愚政治的欠陥が避けられないこともある。先の衆議院選挙あたりは、その典型かも知れない。郵政民営化のみを錦の御旗にしたことが、自民党の圧勝を招いたものの、残念ながら巨額の国債や年金問題等焦眉の重要案件は左程選挙を左右しなかったのが真相である。劇場型と揶揄される由縁であろう。しかし、民主国家では、もし為政者に瑕疵があれば、何れは何等かの形で是正される。つまり次回の選挙で政権交代が可能になるということだ。回りくどいやり方ではあるが、それでも民主主義は他の政体に勝るだろう。

中国は人類歴史の淵源である4大文明の内でも燦然たる経歴を持つ大国である。日本が弥生時代と言われた頃、中国は既に国家としての形態を整え、周辺諸国から名実共に上国として一目も二目もおかれていた。諸子百家のような各分野に於ける思想家の輩出は、その精華であったろう。 翻って現代中国は如何か。 革命の時代から、本来の「衣食足りて礼節を知る」普通の国家に成熟しているのだろうか。顧みれば、日本においても終戦まで特別高等警察、通称特高が無政府主義者も共産党員も含め異論を吐く人達を国体を脅かす不逞の徒として、ひとからげに「主義者」として扱い弾圧の限りを尽くした。中国では1949年の建国以来、皮肉にも共産党による一党独裁の美名の下に共産党政権を批判する一切の行動を反革命、国家転覆の恐れありとして弾圧を繰り返して来たが、それはまさしく昔の日本の特高と同じである。しかし、中国政府が公安や武装警察或いは司直を駆使して13億の民をいつまでも支配し続ける事が果たして可能なのであろうか。現在の中国では、知識人による政府批判が自由に出来るほど成熟した社会ではない。ヤフー、グーグル、マイクロソフト等ですら中国での事業に際しては、中国当局の方針に従わざるを得ず、中国当局の指定する特定の言葉や用語をスクリーニングすることが義務付けられている。どの国にもその国なりの事情があることは当然として、13億の市場は世界に冠たる大手多国籍企業にとってすら節を曲げてでも参入したい市場なのであろうが、決して誉めた話ではない。換言すれば、中国政府がそこまで横車を通さねばならぬ程に神経質になっている証拠でもあろう。どの国においても公序良俗に反する映像や情報が取り締まりの対象となるのは当然の事ではあるが、仮に「自由」とか「市民」とか「デモ」とかの誰が見ても聴いても極く当り前の言葉まで規制されたり監視の対象であったりするとすれば、これは最早国家そのものが既に一種の精神的牢獄に成り下がっているに等しい。しかし、中国人は「上に政策あれば、下に対策あり」というタフな民族である。大昔から「面従腹背」なる言葉を作った民族でもある。中央政府がどのような政策をとろうとも、言論統制や禁書の政策に永続性はないだろう。ネチズンやハッカー達は既に対策を講じている。それを知りながらも、中国政府は尚且つ公安や警察を筆頭に民の声を封殺し、知識人はもとより大衆の離反は続く。オリンピックを主催する2008年には無数の外国人やマスコミが奔流のように流入し、強権をもってしても情報の統制や漏洩防止はますます不可能になるだろう。禁書を強行したところで、海外での印刷は可能であり、壁新聞はもとより中国庶民の得意とする口コミに加えインターネットが急速に普及している中国にあって情報封鎖は無駄である。いくら「共産党による、共産党の、共産党の為の政府」を標榜しても実態が既に資本主義化というより悲しむべき拝金主義が蔓延している社会にあっては、最早説得力のない党員向けの空しいスローガンになっているのが現実だ。中国共産党は、無数の自国民の肉体や精神を破壊し今日に至っている。情報統制によって、その支配を人間の根幹である精神にまで徹底させようとしても、それは最早不可能な時代である。その意味で新華社や人民日報に対する民衆の評価「日付以外,信じるに足る情報無し」は、ある意味で共産党を見限ってしまった中国民衆の痛烈な批判ではなかろうか。

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