【大紀元日本6月2日】中国共産党の元副首相であった黄菊氏(68)が、2日午前2時ころ死去した。新華社通信が伝えた。同氏は、国内の意思決定機関である中共常務委員会で、かつて財務・経済のテクノクラートとして手腕を発揮した。 同氏が、国内の経済政策立案で影を潜めるようになったのは、2006年3月からで、公式には癌ではないかとの憶測が流れていた。党内では、「実験的手法と信念の人」と評価されていた。 黄氏は、いわゆる法輪功弾圧で有名な江沢民・元総書記の側近の一人で、いわゆる「上海閥」、地元上海への外資による資本投下と国際都市化に尽力した。黄氏は、後ろ盾の江沢民失脚後も引き続いて党内のロビー活動で隠然たる勢力を維持し、江沢民派閥の党内残留に尽力した。 国内メディアによると、黄氏の死去により、胡錦涛総書記は地盤固めに入るとみられ、きたる第十七期の全人代で主要な人事を決定しなおすものとみられる。
黄氏は、1938年に浙江省で生まれ、清華大学で工学を履修、後に上海に出てエンジニアとして1966年の国家プラントに参加した。 上海で頭角を現した同氏は、党内で序列を伸ばし、上海の国営企業で重要な位置を占めるとともに、やがて1991年には上海市長にまでなった。1995年から2002年まで、黄氏は上海市党委員会の書記長および党中央の常務委員として権力の中枢に食い込んだ。 2002年、同氏はさらに党中央の序列6位にまで昇格し、国家に影響を与える9人の中の1人となった。 黄氏の最後の職歴は、2003年に就任した国務院の副首相職で、中国国内の財務と経済政策を司った。同氏は最後に公衆の面前に現れたのは、2006年3月の全人代で、上海閥の有力者の一人として「反胡勢力」の慰撫を求められた。 黄氏にとって計算違いの躓きだったのは、上海党内の後継者に指名していた陳良宇が汚職で告発されたことだった。その後、公式には「黄氏発病」の報が流され、同氏は公式の場に久しく姿を見せなくっていた。香港メディアなどが、同氏の抗癌治療について報道したことがあったが、中国国営メディアはこれを伏せていた。