【大紀元日本2月8日】人間とは何か、という最も根源的な問いにぶつかって、いま少々困っている。
「人間」という文字を、「にんげん」と読めば一人の人(ひと)またはその総称という意味になり、現代日本語では通常こちらの用法だけに限って使われている。
ところが、この漢字にはもう一つ「じんかん」という読み方がある。
人間を「じんかん」と読むと、その概念はやや具体化されて、「世の中」や「社会」といった複数の人によって構成される場所を指すことになる。文字通り「じんかん」とは、人と人との「間」に存在する相互関係に意識が向いた言葉ということだろう。
幕末日本の詩人・釈月性が「人間、到る処青山有り」とうたったように、本来「人間」とは、この「じんかん」の意味が原義であり、日本語も近代以前まではそのように使われていたし、中国語では現在でも「にんげん」の意味でこの言葉が使われることはない。
つまり順序に従えば、まず人が集まり社会となって人間(じんかん)が成立し、その人間(じんかん)のなかで訓練をうけて個としての人間(にんげん)が形成される、ということになろうか。人と社会とは実は同根のものであったことが、このような言語からも伺える気がする。
大河のほとりに人が集まり生活を始めたところから、人類の文明が生まれた。五千年の歴史を持つという中国古代文明もそうであったらしい。
人が集まれば、そこに相互扶助の関係と秩序が生まれ、社会道徳や禁忌が定着する。
食糧の生産力が上がれば生活にゆとりができ、また、それぞれ個人の技能が高められて農業以外にもいろいろな専門職が出現してくる。
やがてそこで、美術や音楽や舞踊といった、必ずしも生活必需品ではないが、人間の精神に感動をもたらす大切な役割を担った文化活動がおこなわれるようになる。
しかしまた、人が集まれば、そこに蓄積された富や権力に対して異常な欲望を持つ一部の人間が現れ、暴力によって弱者を虐げ、人民に塗炭の苦しみを与える悪い政権ができてしまうこともある。
このように、人が集まってできた人間(じんかん)すなわち社会に、幸福なものと不幸なものとの二種類があるとすれば、その違いはどこからくるのだろうか。
一言でいえば、「文化」の有無による、ということだろう。
「文化」のある社会は、美しく清潔で、そこに住む人々にとって必ず優しい社会である。
「文化」を失った社会は、目も当てられぬほど殺伐として不潔であり、例外なく荒廃した社会となる。荒廃した社会は、精神の悪循環によって、さらにまた荒廃した心の人間(にんげん)をつくる。今の中国は、残念ながらこちらのケースに陥っている。
ところで、私たちが常用する「文化」という言葉も、言語学的視点からもう一度考えてみる必要があるようだ。
カルチャー(culture)の訳語として広まったのは近代以降のことであり、漢語の中の「文化」とは、それよりもはるかに長い歴史をもつ由緒ある言葉だからである。
前漢(西漢)の末期、劉向(りゅうきょう)の編纂した『説苑』という書物のなかに「凡そ武の興るは服さざる為なり。文化して改めざれば後に誅を加える」とある。また、広辞苑の「文化」の第一項にも「文徳で民を教化すること」と記されている。
つまり、漢語における「文化」とは、まさに「武力や暴力を用いずに文徳をもって人民を正しく教化してゆくこと」を指すのである。
この場合の「文化」とは、完成された芸術作品のような、外形だけを示す名詞ではない。
「浄化」「美化」「緑化」「活性化」などと同様に、人類が善の方向にむかって努力をしていく過程での、動的かつ理想的な行為を指す言葉なのである。
中国は古く、大きく、そこに住む人間(にんげん)も圧倒的に多い。
言うまでもなく、日本とは人間(じんかん)のスケールがけた違いなのである。
だからこそ中国では、民を正しく導くための正当な「文化」が不可欠になってくる。
しかし、そこで人が奢ることは許されない。その「文化」には神が定めた厳格な法がある。「人と自然を大切にせよ」ということである。
ところが20世紀半ば、その神の法に背いて、自然を破壊し人民を虐げる悪魔のような政権が中国に誕生してしまった。
中国共産党というこの独裁政権が人民にもたらしたものは、中華民族が過去に経験したいかなる苦難にも比較できないほどの、8000万人の無辜の民が異常死させられるという大惨劇であった。このような恐るべき事象は、ペストやインフルエンザ大流行などの病禍をのぞけば、世界史的にも他例を見ない。
さらに中国共産党は、自分に都合の良いよう人民を洗脳するために、きわめて巧妙な「偽文化」をつくった。これを「党文化」という。
中国共産党を「偉大な」革命政党として神格化した「党文化」は、中国国内のみならず、世界中にばらまかれた。
その「党文化」の毒に汚染された国といえば、わが日本も例外ではない。
今日からすれば恥ずべきことだが、当時の日本人のなかにも相当数の中共信奉者がいたし、毛沢東崇拝者がいた。隣国で、阿鼻叫喚の悲劇が起きていることも知らずに、である。
私は、中国に接した時代がやや遅れたこともあって、それほどの信奉者でも崇拝者でもなかったつもりだが、やはり中国語を学び始めた学生時代には、中共を正当とする岩波新書『中国現代史』(岩村三千夫ほか著)などを読むところから入ってしまったために、疑うことなく中共を肯定的に認識していた。
後に私はその大誤解に気づき、自分の体内から「党文化」の毒素を抜き去るのに大変苦しい努力を要することになる。
ついでに言えば、私が学生だった20数年前には、まだ「党文化」の毒に染まったままの大学教授が、ざらにいたと記憶する。定着した「常識」とは実に恐ろしいものである。
今でこそ「文化大革命」を肯定する日本人はいないだろう。しかし、中共の本当の悪魔性に気づいていない日本人は、2008年の今日でも残念ながらまだ多い。まさしく日本を汚染した「党文化」の毒は今も抜けていないのである。
今回で2回目となる「神韻芸術祭」日本公演が、まもなく始まる。
そのことを、私は日本人として神に感謝したいと思う。
神韻ニューヨーク芸術団と神韻巡回芸術団による、この「神韻芸術祭」世界70都市220回公演は、「正統な中国伝統文化の復興」という使命を担った壮大なミッションである。
それら神韻芸術団の出演者・スタッフと、それを日本で迎えるために連日準備に奮闘するボランティアの多くは、「法輪功」という気功を熱心に学ぶ人々であるが、私たち日本人はそのことに違和感をもつ必要は全くない。
それは彼らと身近に接してみればすぐに分かることだが、法輪功を学ぶ人々は皆、心優しく善良な人々であり、常に自己を見つめながら正しい道を歩もうとする誠実な信仰者なのである。
私は、法輪功からは客観的な立場にある者だが、法輪功の人々が大変好きである。
日本人は、中共による法輪功への欺瞞に満ちた誹謗中傷に騙されてはならないし、また法輪功を学ぶ彼らの素晴らしさを正当に評価すべきであろう。そうすれば、私たち日本人が真の友とするべき中国人は、まさしく彼らであることが自ずと明らかになるはずだ。
この「神韻芸術祭」のミッションの目的は、法輪功の宣伝というような利己的な次元のものでは決してなく、「正統な中国伝統文化の復興」という平和的手段によって、全世界にばらまかれた「中国共産党文化」の毒素を完全に除去して全人類に幸福をもたらす、という崇高な理念に基づくものである。
人類の歴史の中で、これほどの快挙はおそらく存在しないであろうと私は信じる。
この世界史的偉業を進めている勇気ある人々を、私たち日本人も両手を広げて迎えようではないか。
聞くところによると、日本の大学院などにいる、中共の息のかかった一部の中国人留学生が、「神韻」を見にいかないよう呼びかける電子メールを各所に発信しているらしい。
笑止千万である。愚かな妨害工作など何の得になるだろう。
中共の悪運も尽きたことは、もはや歴史が答えを出している。せめて泥舟が沈む前に中共と決別することを、日本に潜伏するスパイ諸士にはお勧めしておこう。
「神韻芸術祭」のステージは、この上なく清らかで、美しい。
それは法輪功への非道な迫害で亡くなった善良な魂が集まってくるからだ、と法輪功の友人は言う。その通りだろう、と私も思う。
そのような魂のステージが、まもなく開演する。
日本の多くの皆様に見ていただけることを切に願っている。