1989年6月4日に天安門事件が起きてから、江沢民は常に恐怖と戦っている。人々がこの事件の真相を語り虐殺の責任を追及するのではないか、趙紫陽の名誉が回復されるのではないかと恐れているのだ。
民主化を求め天安門広場に集まって(ハンガーストライキを行って)いた学生たちのもとに趙紫陽が駆けつけ、彼らに語りかけている様子を撮影した写真があるが、江が最も苦々しく感じているのは、この十数年、6月4日になるたびにこの写真が海外メディアに掲載されることだ。
この写真は、当時の最高権力者の趙紫陽には学生たちを虐殺するつもりなどなかったことを示しているうえ、六四事件を踏み台に最高権力者の座に就いた自身の不名誉な過去を暗喩しているように感じるのだろう。
江沢民は天安門事件の前に趙紫陽から批判されたことを忘れてはいない。だからこそ江沢民は、趙紫陽を軟禁し行動を厳しく制限していた。その執拗さは監視を担当する保安部門の人間でさえそこまでする必要があるのかと理解に苦しむほどであった。
戦車に立ち向かう中国人青年は秘密裏に処刑された
天安門事件後、世界中のメディアがこぞって、単身丸腰の中国人青年が前進する戦車の前に立ちはだかる写真を掲載した。この青年の名は王維林さん。海外メディアが彼の勇気ある行動を称賛し、20世紀の英雄だと称えた。このことにはらわたが煮えくり返る思いをした江沢民は、この時の映像を頼りに青年を探し出し密かに処刑するように密令を出した。
2000年、米CBS放送のベテラン記者ウォレス氏が江沢民にインタビューした時、王さんの写真を見せながら質問した。「この青年の勇気に感心しますか?」だが、江の回答はこうだった。「彼は(当局から)捕まってはいない。彼が今どこにいるか私は知らない」この言葉は記者の質問と全くかみ合っていないが、ある答えを示している。
天安門事件のときに国内外の中国人から称賛されたもう1人の英雄が、38軍の当時の軍司令官、徐勤先氏だった。徐軍長は軍委の命令に逆らい、学生たちに銃を向けることを拒んだ。そのため、軍委主席だった江沢民の命により、軍事法廷の秘密裁判にかけられ、5年間の実刑判決を受けた。
また天安門事件後ほどなくして開かれた外国特派員向けの記者会見では、江沢民は信じがたい発言をし、世界中を凍りつかせている。あるフランス人記者が、民主化運動に参加したため当局に拘束された女性大学院生が四川省の刑務所で(看守から)集団レイプされたことについて質問したとき、江はこう言い放った。「罪を犯したのだから当たり前だ!」
学生運動を「暴動」だと断罪し、影響力ある支持者を執拗に追及する
江沢民にとって一番大事なことは、事実を風化させ、真実をあいまいにし、最終的に天安門事件に関する中国人全体の記憶を捻じ曲げてしまうことだった。そうしなければ最高権力者としての地位を脅かされてしまうからだ。
事件後、江は真っ先にテレビ局に対し、学生らが「暴虐な行為」を行ったと最大限に宣伝するよう命じた。証拠映像のため、わざと軍用車両を燃やし「暴動現場」を作り上げることまでやってのけた。すべての国民に軍隊の発砲はやむを得なかったのだと信じさせるため、あらゆる手段を使ったのだ。
その結果、事件に実際に関わらなかった人々は、北京で学生による暴動が発生したのだという虚偽の発表を信じるようになってしまった。
こうした宣伝工作を推進する一方で、江沢民は各部署で民主化運動に参加したり、学生を支持したり、鎮圧に反対したりした影響力ある人物を詳しく調査するよう命じていた。密告を奨励し、一人残らず摘発逮捕し粛清に力を入れていった。当局の洗脳宣伝と粛清の恐怖で、いつしか人々は事件の話を避け、思い出すのをためらうようになっていった。
虐殺現場の目撃者を拷問し証言を捻じ曲げる
例えば、事件後に人々が最も話題にしたのは、鎮圧の際、戦車は本当に人を轢いたのだろうかということだったが、このことについて、米国在住の中国共産党史研究家、高文謙氏(中国共産党中央文献研究室の元室務委員で、周恩来生涯研究小組長を務め、『晩年周恩来』(邦題『周恩来秘録―党機密文書は語る』上下巻 (文春文庫))などを執筆した。89年に米移住)は1つの例を挙げている。
六部口で本当に戦車が人を轢いたのかどうか。これは当時の各部門で最も議論されていたことだ。私は海外に渡ってから、多くの当事者や目撃者がそれは事実だと証言してくれた。確かに新華門六部口で、天安門から引き上げようとしていた学生たちを戦車が追いかけ轢き殺したのだ。その結果、多くの学生がその場でただの肉塊と化してしまった。この話はあっという間に広がった。
六部口の近くに中国共産党宣伝部の宿舎があったが、そこに宣伝部の重点育成人材対象者で、博士課程のある大学院生が滞在していた。彼は信頼のおける人物で、一部始終を目撃していた。
当時、戦車による学生の大虐殺の話は真っ赤な嘘だと言われていた。もし真相が漏れたとしたら、何をどう説明しても戦車が人を後ろから轢いたなどということを正当化することなどできない。よって、その話を徹底的に打ち消すしかないと江沢民は考えた。
私たちの職場でも、「誰から聞いた?その人は誰から聞いたのだ?」と大勢が尋問を受け、話の出所を厳しく追及された。そしてついにその大学院生が突き止められ、彼は厳戒部隊に連れ去られてしまった。
戒厳部隊で大学院生は拷問を受け「自白」を強要された。「(戦車が人を轢いた)現場を見たのか」と聞かれ、彼はこう答えた。「確かに見ました。私は党員として党に忠誠を誓い、誠実であらねばなりません。ですから自分の見たままを話します。私は確かに見ました」すると取調官は1000ボルトの高圧電流が流れる警棒をちらつかせながら、もう一度尋ねた。「見たのか?」「見ました。確かに見ました」その瞬間、彼は電気警棒を当てられ、気を失ってしまった。目が覚めると、また同じことを聞かれた。「見たのか?」「見ました」そしてまた電気ショックを受け気絶した。こうしたことが何度も繰り返され、学生はついに「見ていません」と「自白」した。後に伝わってきた話では、彼の体には障害が残り、精神にも異常をきたしてしまった。
共産党は自分の話は真実で事実に基づいているなどと吹聴しているが、実際に民衆に真実を語らせることを許さない。私はよくこの言葉を思い出す。「墨で書かれた嘘で、血で書かれた真実を覆い隠すことなどできない」
戦車に両足を押しつぶされた方政さんの証言
北京体育学院理論系に在籍中で卒業を控えていた方政さんは、高速で走る戦車に両足を引きちぎられてしまった。
16年後、方さんは大紀元の取材に対しこのように証言している。「(戦車を)よけきれず地面に倒れた私の両足を、戦車が轢いていった。その時私の意識はまだ残っていたが、体が地面を引きずられるような衝撃を感じたことだけを覚えている。ある程度の距離を引きずられたため、頭、背中、肩などがすりむけてしまった(病院に運び込まれてから医者から説明された)、戦車のキャタピラが私の足を引きちぎり、私はキャタピラの上から、道端の柵に寄りかかるように転がり落ちた。
その後、ネットで偶然にも当時の自分を撮影した写真を見つけた。海外ではネットで見ることができるはずだ。両足が引きちぎられた人物が歩道の柵にもたれかかるようにして地面に横たわっている。これは確かに私だ。私の右足は大腿部上部から、左足は膝の位置から無くなっている…」
事実を覆い隠し、罪なき人物に濡れ衣を着せ、危険人物を徹底的に取り締まるという手法をこの時に確立した江沢民は、宣伝機関と、もはや暴力機関となり果てた公安や軍を巧みに掌握し、その後も同様の手段で法輪功学習者を弾圧していった。
彼の手は多くの人々の流した血で赤く染まっている。江沢民がいかに隠し通そうとしても、「六四事件」が話題になる時期は毎年やってくる。
(翻訳編集・桜井信一/単馨)