これは実際にあった真実の物語です。1892年、スタンフォード大学に通うある18歳の学生は学費に困っていました。孤児の彼は、お金の工面が困難でした。ある日、彼はとてもいいアイディアを思いつきました。友人と一緒にキャンパスでコンサートを開催し、学費を稼ごうとしました。
2人は著名なピアニスト、イグナツィ・パデレフスキに演奏を依頼しました。しかし、パデレフスキのマネージャーは2000ドルの前金を要求しました。2人の大学生はコンサートの準備のために奔走したのですが、残念ながら、十分なチケットを販売できず、わずか1600ドルしか用意できませんでした。
しかたなく、2人の男の子はパデレフスキに窮状を説明したうえで、1600ドルと400ドルの手形を渡しました。しかし、驚いたことに、イグナツィ・パデレフスキは学費に当てるようにとお金を受け取りませんでした。
パデレフスキは1919年、ポーランドの首相兼外務大臣になり、偉大なリーダーとして国のために全力を傾けました。しかし、第一次世界大戦でポーランドは大きな打撃を受け、150万人分の食料を確保できませんでした。
パデレフスキはアメリカの食糧庁(現在は総合食料局)に助けを求めることにしました。当時の長官はハーバート・フーヴァーでした。
フーヴァーはアメリカが第一次世界大戦に参戦した1917年には、当時のウィルソン大統領から国内の食料管理を統括する食糧庁長官に任命されて、采配を振っていました。戦後もヨーロッパのアメリカ救済局総局長として活躍を見せました。
フーヴァーはパデレフスキの依頼を快諾し、迅速に大量の食料品をポーランドに送りました。パデレフスキはこれに感激し、直接感謝の意を伝えたいと申し出ました。
二人は対面しました。パデレフスキが感謝の言葉を述べようとした時、フーヴァーは彼を止め、そしてこう話したのです。「あなたは私に感謝することはありません。もう覚えていないかもしれませんが、実は27年前、あなたの助けにより2名の若い学生が無事、学業に励むことができました。その中の一人が私です」
フーヴァーは戦時中、人道的援助活動の推進者としてアメリカ国民に広く知られるようになった。その後、アメリカの第31代大統領になりました。
(翻訳編集・李花)