1997年5月中旬のある日の夕方、ラオスと中国の国境上空にロシアのヘリコプターが飛来した。中国海軍司令部の姚誠(ヤオ・チェン)中佐(当時37)は、パイロットの隣に座り、眼下の風景を静かに見つめていた。
窓の外には、紺碧の山々に囲まれた青々とした熱帯のジャングルが広がっている。梢の間から夕日が差し込む。森の中に隠された壮大な宮殿は、魅惑的な光を放っていた。姚はこのような美しい光景を見たことがないし、これからも見ることはないだろう。
当時、世界最先端の技術で作られたロシア海軍の艦載対潜ヘリコプターKa-28(カモフ28)を、姚はラオスから調達したばかりだった。中国海軍は、このヘリコプターをリバースエンジニアリングして技術を再現することを計画していた。
いつの日か、このレプリカヘリコプターが中国海軍の誘導ミサイル駆逐艦と一緒に飛ぶ日が来ると思うと、姚は思わず興奮した。しかし、ヘリコプター獲得のための極秘任務を遂行しても、中国政府から表彰されないばかりか、1998年に江沢民(当時の中国共産党総書記兼中央軍事委員会主席)の命令で逮捕され、7年の懲役を科せられるとは思いもよらなかった。
極秘ミッション
姚誠は、本名を譚春成といい、2016年に米国に亡命し、現在はロサンゼルスに住んでいる。姚は26日の大紀元のインタビューで、中国共産党政権の極秘ミッション中に海外からヘリコプターを盗み、それが報われるどころか投獄された経験を語っている。
1993年、中国海軍はロシアから誘導ミサイル駆逐艦2隻とKa-28ヘリックス対潜攻撃ヘリコプター24機を購入するために準備チーム「933オフィス」を設立した。姚はこのオフィスで働いていた。
Ka-28は、小型ながら高性能だった。当時、潜水艦を攻撃するには、通常2機のヘリコプターが必要で、1機はソナーと磁気探知器を搭載して潜水艦を捜索し、もう1機は魚雷を搭載するという非効率的方法をとっていた。Ka-28は、捜索と攻撃の両方の能力を持っていた。
2年間の交渉の末、まもなく合意に達すると思われた。しかし、1996年に台湾で初の直接民選選挙が行われ、李登輝氏が総統に就任した。中国政府が台湾の民主化に不安を抱き、台湾侵攻に備えて軍事力を増強しようとしていると考えたロシアは、ヘリコプターの提示価格を当初の650万ドルから1350万ドルに引き上げた。
ここで、中国海軍と国有メーカーのハルビン航空機製造会社(HAMC、現・ハルビン航空機産業グループ、哈飛)の幹部は、お得意の技術窃盗の戦術をとることにした。姚は、軍人としての経験から、中国の国防のための軍事技術のほとんどは、外国から入手してコピーしたものだと語った。
姚は1982年に中国海軍航空技術学院を卒業し、海軍航空隊の指揮官にまで上り詰めた。当時の海軍司令官・石雲生からも一目置かれていた。
姚は偽のパスポートを渡され、HAMCのヘリコプター部門の上級技術者と協力して任務を遂行した。この技術者は、以前海軍が名門・清華大学で選んだ学生で、ヘリコプター技術を盗む目的でロシアに留学していた。
ラオスへの潜入
旧ソ連崩壊後、アジアでK-28を保有していたのはベトナムとラオスの2カ国だけだった。中国とベトナムの緊張関係から、2機を保有していたラオスが狙われた。そこで姚は、パートナーと一緒に現地に行くことにした。
中国の情報機関である国家安全部の情報によると、ラオスで3番目の権力者である国民議会議長の娘が、上海外国語大学に留学していた。1997年2月、冬休みで帰国し、昆明空港で乗り継ぎを待っている間、姚たちは彼女と話す機会をうかがっていた。
出国書類を書くためのペンを持っていなかった彼女に、姚は近寄ってペンを渡した。飛行機に乗ると、姚とパートナーは、女性の隣に座り、話しかけ始めた。
彼らは、ビジネスチャンスを見つけるためにラオスにやってきた「金持ちの中国人ビジネスマン」と名乗った。彼らから通訳の仕事を頼まれたとき、彼女はすぐには承諾しなかった。ラオスの公務員の月給に相当する100ドルの日給を提示されると、彼女は同意した。
その後、姚たちはこの女性の協力を得て、30万ドルを費やし、ラオスの国民議会、国防省、空軍などの政府関係者と良い関係を築き上げた。また、議長の息子を、北京第二外国語学院に留学させ、授業料の全額免除や生活費の提供を行った。
結局、ラオス軍との価格交渉により、Ka-28を150万ドルで購入することに合意した。ラオス当局は、この取引に満足していた。つまり、使われなくなった古いモデルを処分しただけでなく、売却益も得たのである。
権力闘争に巻き込まれ、懲役7年判決
HAMCは4人のパイロットをラオスに派遣し、1週間でヘリコプターの操縦を習得した。彼らは、ヘリコプターを中国とラオスの国境に運び、中国への飛行を準備した。
このミッションは極秘だったため、人目に触れないようにしなければならなかった。そのため、中国の空港には通常の入国手続や飛行計画の通知は行われなかった。
レーダーの探知を避けて低空飛行し、中国南西部の雲南省西双版納県にある景洪空港に到着すると、地元の武装警察に取り囲まれた。このようなヘリコプターを見たのは初めてだったので、国境警備隊はすぐに上司に報告した。その後、海軍本部の担当者が現地の武装警察に連絡を取り、姚たちは釈放された。
しかし、姚にとって不幸だったのは、その日、中国の最高軍事機関である中央軍事委員会で副主席の当番に当たった張万年は、今回のミッションの総責任者・劉卓明の父親である劉華清の政敵だったこと。
当時、中央軍事委員会には、党総書記兼中央軍事委員会主席の江沢民の下に、劉華清、張万年、張震、遅浩田の4人の副主席がいた。劉華清を副主席の座から蹴落とそうとしていた張万年は、この海軍の極秘ミッションを聞いた。
張は、ミッションが軍事委員会に報告されていないことを理由に、江沢民に訴えた。実際、各部局が秘密任務を軍事委員会に事前報告しないことはよくあることだ。
江沢民はもともと劉華清との関係が悪く、これを機に劉華清を追い出そうとしていた。しかし、息子の責任逃れのために、劉は権力を使って姚に責任を押し付け、「すべては姚の個人的な行動であり、海軍とは関係ない」という報告書を部下に作らせた。
この間、ロシアの情報機関はラオスから、中国がKa-28を低価格で購入したことを知った。ロシア政府は激怒し、中露間の武器貿易を停止すると脅し、北京を怯えさせた。北大西洋条約機構(NATO)の対中武器禁輸措置により、中共政権はロシアからしか武器を購入できなかった。
その結果、劉華清はロシアに渡り、「Ka-28事件は一介の海軍士官の仕業である」と主張した。ロシアをなだめるために、軍の指導者たちは、姚をスケープゴートにすることにした。姚は「国家機密漏洩」の罪で懲役7年の実刑判決を受けた。
中国海軍は当初24機のKa-28の購入を計画していたが、最終的には8機しか購入しなかった。中国当局はすぐにKa-28の模造機を製作し、機体や部品の国産化を開始した。中国海軍の対潜ヘリコプターの主力として、現在も重宝されている。
姚によると、中国共産党は自力で先端技術を開発できないため、武器の開発には技術窃盗が主な手段である。窃盗の対象もロシアから米国などの西側諸国へと拡大した。海軍情報部の専門スパイに加えて、多くの部門が海外で技術を盗む方法を探していた。彼のように、技術を盗むために海外に派遣された海軍士官も少なくなかったという。
ラオスに行く前に、姚は国家安全部の職員から「海外で起きたことはすべてあなたの責任だ。政府はそれを認めない」という警告を聞いた。しかし、まさかミッションを成功させて国に戻った後、逮捕されるとは思ってもみなかったという。
「何十年もかけて軍人としてのキャリアを築いてきた後、私は、社会的地位、経済力、名誉などすべてを失ってしまった。かつての仲間たちにも見下された」と悲しげに言った。
(翻訳編集・王君宜)