論評
データセンターに対する反発は、政治・金融界のエリートたちに衝撃を与えている。その理由は、この反発が左右の政治的立場を超えて広がっているように見えるからだ。実際、データセンターは抑制され、規制されるべきだという点では、多くの米国人が一致しているように見える。また、この反発の一部は、都市部に急速に普及し、新たな形の警察監視をもたらしているFlock Safety社のカメラにも向けられている。
現地の詳細な実情を知らずにこれを見れば、2世紀前の産業革命期に伴って起きた「ラッダイト運動の再来」だと早合点してしまうかもしれない。しかし、人々が新しいものに抵抗するのは、常にそれを理解できず、自由市場の力がいついかなる場所でももたらす必然的な「創造的破壊」を嫌っているからだけなのだろうか。
私はこの言説を信じていない。市場で自発的に受け入れられた真のイノベーションが、古き良き時代への回帰を求める復古主義者たちの大規模な抵抗運動を生み出す理由などないはずだ。ここで極めて重要な言葉は「自発的」という点にある。歴史を振り返れば、現在のデータセンター誘致を含め、多くの産業構造の転換には公権力(国家の介入)が色濃く関与してきたことが分かる。
あまりにも頻繁に、大規模な技術的衝撃は不自然(非有機的)な形で生み出されてきた。それは不当な優位性、権力、そして自らの利権拡大を目論み、国家権力と結託した野心的なカルテルによって押しつけられてきたものなのだ。
500年前にさかのぼり、英国の「囲い込み法」を見てみよう。これが産業革命の出発点になったとしばしば言われているが、その評価が正しいかどうかは別として、広範な囲い込みが行われる以前、イングランドの農村部の多くでは、慣習法に基づく開放耕地制度が機能していた。
村には大きな開放耕地があり、それが各世帯によって耕作される細長い区画に分けられていた。それに加えて共有の牧草地、草地、荒地があり、村人たちは慣習的な権利に基づいて家畜を放牧したり、燃料を集めたり、食料などを採取したりすることができた。こうした権利には、放牧権、豚を放して木の実を食べさせる権利、薪などを採取する権利などがあり、特定の土地保有に付随する場合もあれば、より広く小作人たちに認められる場合もあった。土地は共同の輪作や放牧の仕組みによって管理されていた。
伝統は定着し、その仕組みは機能していた。しかし17世紀から19世紀にかけて、議会は権力や王室の特権へのアクセスなどを背景に、これらの土地の私有化を推し進めた。農民たちは土地から追い出され、長年の慣習によって認められてきた放牧権や耕作権も失われた。これは間違いなく権力の行使であり、その結果、私有財産権という考えそのものへの信頼まで損なわれた。英国社会では、私有財産権が単なる王室の特権にすぎないと見られるようになったのである。
これこそが民衆の反発を招いた原因であった。問題は産業化そのものにあったのではなく、農耕社会とその確立された生活様式に対して、産業化を力ずくで押し付ける手法が選ばれたことにあった。もしこれが対話と合意を通じて進められていたならば、世論はまったく異なるものになっていたはずだ。
南北戦争後の米国南部でも、非常によく似たことが起きた。北部の産業界と結びついた南部再建期の政府は、南部の広い地域を強制的に工業化し、伝統的な農地を工場へと変えていった。その結果、産業化は選択ではなく、外部から侵入し強制されるものだという認識が生まれた。これに反対する大きな運動が起きたのは、人々が進歩を嫌っていたからではない。進歩を無理やり押しつけられることを望まなかったからである。
もう一つの例が、第二次世界大戦後の米国である。当時の米国には、世界でも最も高度で発達した旅客・貨物鉄道網が存在していた。しかしワシントンでは、ロビー活動による圧力や、より良い未来への期待などを背景に、それらの多くが事実上見捨てられ、自動車と州間高速道路が優先された。「進歩」の名の下に数千もの小さな町が打撃を受け、歴史ある鉄道駅や、それによって支えられていた町々は衰退するに任された。
デジタル革命でさえ、同じような手法によって損なわれてきた。パンデミック期のロックダウンによって大きな利益を得たのは、ソフトウェア、ハードウェア、オンライン教育プラットフォームを販売する企業だった。その費用のかなりの部分は景気刺激策によって支えられ、それが後に高インフレにつながった。在宅命令は自発的なものではなく、産業界の利益につながる形で強制的な「リセット」が行われたもう一つの例だった。
その直後、人工知能(AI)が登場した。しかしAIは熱狂よりも強い疑念をもって迎えられた。その大きな理由の一つがタイミングだった。ロックダウンによって利益を得たのと同じ産業が、今度は人間の知性を機械で置き換えるために設計された新たな道具によって勢いづいている。人々が疑念を抱くのも不思議ではない。
このことは、全米各地に次々と建設されるデータセンターに対して、なぜこれほど強い反対が起きているのかを理解するうえでも重要である。データセンターが地域にもたらす絶え間ない低い機械音は耐え難いものだ。これは経済学でいう「負の外部性」に当たる。
さらに、データセンターが建設される土地の多くは「土地収用権(eminent domain)」によって取得されており、筆者の見方では、たとえ補償が行われたとしても、それは土地を奪うことに等しい。
これは自由な選択でもなければ、自然発生的なものでも、自発的なものでもない。こうしたデータセンターは、全米各地の既存の地域社会に押しつけられる中央計画の一部であるかのように感じられる。これが党派を超えた反発を引き起こしていることは、驚くべきことではない。
各地に設置されているFlock社の監視カメラについても同じである。犯罪対策のためだと説明されているが、人々はそれだけではないと考えている。筆者は、これらは広く住民の動向を把握し、統制するための手段だとみている。重要なのはそこにある。つまり、「統制網」の構築である。人々がこれを受け入れようとしない根底には、一つの直感がある。それは、企業化した支配階級から何かを押しつけられず、自由でありたいという願いである。
こうした動きはどれも、通常の市場プロセスから自然に生まれた発展には感じられない。歴史を見れば、技術革命にはしばしば重大な強制行為が伴ってきた。こうした強制こそが「進歩」と呼ばれるものへの信頼を損ない、反動的だと簡単に片づけられがちなポピュリズム運動を生み出している。むしろその根底にあるのは、普通の人々が「放っておいてほしい」と願う、ごく自然な感情である可能性が高い。
ほかにも例を挙げることができる。米国の農村電化、ソ連の農業集団化、毛沢東時代の中国における人口・社会構造の大規模な再編、さらには風力発電や太陽光発電を義務づける米国の「グリーン・ニューディール」などである。ワクチン接種の義務化も、この一覧に加えることができるだろう。たとえ製品自体に効果があったとしても、義務化は人々を激怒させる。他人が定義した「進歩」を強制されることを好む人はいない。
自由市場は素晴らしいものである。しかし、ここで挙げた事例は通常の市場原理に根ざしたものではなく、ましてや競争という理念に基づくものでもない。われわれは、アダム・スミスが描いた肉屋、パン屋、醸造業者の世界から遠く離れてしまった。
今構築されているのは、普通の人々を軽視し、まるで実験室のネズミのように扱う「統制網」であるかのように見える。それが再び人々の強い疑念、さらには激しい反対に直面しているとしても、何ら不思議ではない。

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