私たちは石油産業の被害者ではない

2026/10/18 更新: 2026/10/18

論説

10月5日、コロラド州の牧場主たちがワシントンの連邦最高裁判所前に集結した。石油・ガス大手のエクソンモービルとサンコア・エナジーを相手取った気候訴訟を支援するためだ。スピーチに立った女性牧場主のキャスリン・ベデルやディアドラ・マクナブらは、干ばつがもたらした深刻な被害と、牧場を維持し暮らしを守るための過酷な闘いについて訴えた。

ボルダー郡とボルダー市によって提起されたこの訴訟は、干ばつや山火事、水資源の減少といった気候関連の損害について、両社に金銭的責任を負わせることを求めている。さらに原告側は、両社が化石燃料による環境への影響について一般市民を欺いてきたとも主張している。

演壇に立つ彼女たちを見て、胸が痛んだ。私自身、農業に携わる女性として、土地から糧を得て生きることの並々ならぬ困難を理解しているからだ。ここテキサスでも、井戸は枯れ果てた。草が消え去るのを見届け、家畜のための水を確保するのに苦労してきた。自分の土地を見渡し、どうやって次のシーズンを乗り切ればよいのか途方に暮れるあの絶望感を、私はよく知っている。

彼女たちの苦しみがわかるからこそ、隣に立って支えたいと思った。だが、彼女たちが誰に責任を求めているのかを聞いたとき、思いは変わった。相手は石油会社だったのだ。私たちのトラクターを動かし、家畜を運び、水を汲み上げ、現代の農業を成り立たせている燃料を供給しているまさにその企業だった。

その点において、私は彼女たちと袂を分かつ。

私たちは石油産業の被害者ではない。自ら進んで関与している当事者なのだ。

私たちは日々、石油を受け入れ、それに同意を与えている。ガソリンスタンドに車を乗り入れるとき、靴を履くとき、薬を飲むとき、あるいは現代医療に不可欠なプラスチック製の医療器具を使うとき、私たちは同意を与えているのだ。冷蔵庫を開けるとき、トラクターを運転するとき、食料品を買うとき、飛行機に乗り込むときにも、同意を与えている。

石油は灌漑パイプ、衣類、子どもの玩具、タイヤ、トラクター、食品の包装材にも含まれている。安価で豊富なエネルギーは、かつての時代の王や女王たちですら想像もできなかったほどの生活水準を可能にした。

私たち全員がこうした製品を求め、それを中心に生活を築き、計り知れない恩恵を享受してきた。それにもかかわらず、手のひらを返してそれらを提供する企業を非難する。私には、それが極めて異常なことに思えるのだ。

もし石油会社が川に石油を流出させたなら、清掃すべきだ。誰かの飲料水を汚染したなら、責任を負うべきである。あるいは、製造業者がリスクを隠したまま意図的に危険な化学物質を家具や子ども向け製品に使用したとすれば、それはまったく別の議論だ。

しかし、社会が熱狂的に消費している製品を供給することは、誰かの井戸に毒を投げ込むことと同義ではない。

コロラド州の訴訟では、両社が気候変動のリスクを偽って伝えたと主張されている。その是非は証拠に基づいて判断されるべきだ。だが仮に、化石燃料の排出が地球温暖化の一因であると認めたとしても、その2社がこれら牧場主の生計を破壊している干ばつを引き起こしたと自動的に証明されるわけではない。

コロラド州は何世紀にもわたって干ばつを経験してきた。気象パターンは複雑だ。降水量、気温、水資源管理、土地利用、そして自然な気候変動のすべてが、牧場で利用できる水に影響を与える。私はこれらの牧場がなぜ苦しんでいるのか、その正確な原因を知っているふりをするつもりはない。だからこそ、誰かに責任を帰することにはためらいを覚えるのだ。

しかし、私たちの文化の中で、より根深い何かが起きているように思えてならない。

何十年もの間、私たちは人間こそが地球の疫病神であると教え込まれてきた。人間の存在は破壊的であり、その消費は恥ずべきもので、カーボンフットプリント(二酸化炭素排出量)に対しては謝罪しなければならないのだと。この教えが私たちの意識に深く刷り込まれた結果、私たちは「人間などいないほうが世界は良くなる」という考えを受け入れ始めてしまったのではないだろうか。

そして、そうした思い込みが、人間の生命を守ろうとする私たちの意志に何をもたらしたのかと疑問に思う。

私たちの周りは、ホルモンを乱す化学物質で溢れている。「永遠の化学物質(PFAS)」は飲料水、土壌、食品、そして人間の血液からも検出されている。研究者たちは、精子数の危機的な減少を記録している。

生殖疫学者のシャナ・スワン博士らは、欧米の男性の精子濃度が1973年から2011年の間に50%以上減少したと報告した。スワン博士は、このペースが続けば、理論上は2045年までに精子数の中央値がゼロになりかねないと警告した(もっとも、その予測が不可避というわけではないが)。

それにもかかわらず、どういうわけか私たちの環境論議は炭素ばかりに過度な焦点を当て続けている。炭素、炭素、炭素だ。私にとっては、子どもたちが吐き出す二酸化炭素よりも、子どもたちがさらされている内分泌攪乱化学物質(環境ホルモン)のほうがはるかに懸念事項である。

普通に呼吸している大気中の二酸化炭素は、がんを引き起こすような毒物ではない。CO2の増加が気候に影響を与えるとしても、それは健康を害する有害物質に直接さらされる危険とは別問題だ。私たちが本当に声を大にして求めるべきなのは、より安全な食料や水、そして人体のホルモンバランスを乱さない製品ではないのか。

人間自身が問題だと繰り返し言い聞かされると、人々は自分たちの健康や存在価値を主張することに消極的になってしまうのではないだろうか。私たちは人間がいかに環境を破壊しているかという議論に慣れすぎてしまい、人間自身も環境の一部であるという事実を忘れてしまっている。

そして、炭素そのものは敵ではない。

炭素は生命を構成する基本的な要素だ。私たちの体内、土壌、植物、そしてあらゆる生き物の中に存在する。植物は大気中から二酸化炭素を取り込み、生命を支える糖へと変換する。人工衛星による調査では、ここ数十年で地球の緑化が大幅に進んでいることが記録されており、大気中のCO2増加がその成長に大きく寄与している。

環境再生型農業を営む牧場主として、私は日々、土壌を豊かにし、生物活性を高め、土地の保水力と浸透力を改善することに費やしている。人間とは自然界の積極的な参加者であるべきであり、申し訳なさそうに身を縮める訪問者であってはならない。

そして、話はコロラドに戻る。

あの牧場主たちは、土壌を育てるためにどのような実践をしてきたのだろうか。どのような輪換放牧を行っているのか。どれだけの有機物を蓄積してきたのか。水の浸透性を高め、流域を保護するために取り組んできたのだろうか。

私にはわからない。彼女たちは素晴らしい環境再生型の取り組みを行っているのかもしれないし、あらゆる手を尽くしたのかもしれない。どれほど土壌が健全であろうと、雨の降らない空から雨を降らせることはできない。しかし、そうした問いも議論の一部であるべきではないだろうか。人間の存在そのものが問題だと決めつける前に、土地を改善するために人間が何を行えるかを問い直すべきではないだろうか。

私は、人間には「キーストーン種(生態系の要となる種)」として機能する能力があると信じている。思慮深い管理を通じて、劣化した草原を再生し、土壌を再建し、水循環を改善し、他の生物が繁栄する環境を作り出すことができるのだ。私たちは生まれつき破壊的な存在なのではない。目覚ましい再生をもたらす力を持っている。

私は子どもたちに、自分たちの存在が地球の重荷であるなどと思い込んでほしくない。子どもたちには、自分たちはここに属していること、地球をケアする責任があること、そして自分たちの存在が世界をより良くできるのだと理解してほしい。

そして、苦境にある農家の人々にも、自分たちが十分に理解していないかもしれない力に対して誰かに責任を負わせることだけが唯一の希望だと信じ込んでほしくはない。

私はコロラドの牧場主たちの苦しみに寄り添う。彼女たちの恐怖や、何世代にもわたって築き上げてきたものを守りたいという決意も理解できる。しかし、現代文明の基盤を提供している企業に、天候の責任まで自動的に負わせるべきだという考えを支持することはできない。

日々製品を求め、その莫大な恩恵を享受しておきながら、その製品を供給するシステムを作り上げたことに対して自分には何の関わりもないなどと振る舞うことはできないのだ。

私たちは自らの消費の被害者ではなく、この地球の厄介者でもない。私たちはここに生きる権利があり、果たすべき役割がある。そして私たちの最大の責任とは、人間であることに対して謝罪することではなく、自分たちが足を踏み入れたときよりも地球を生き生きとした姿にして遺す、そのような人間になることなのだ。

「ソブリンティ・ランチ(Sovereignty Ranch)」で環境再生型(リジェネラティブ)農業および牧畜を営むモリー・エンゲルハートは、食料主権の確立、土壌の再生、そして自給自足的な暮らし(ホームステッディング)に関する啓発活動に尽力している。彼女は『Debunked by Nature: Debunk Everything You Thought You Knew About Food, Farming, and Freedom(自然に打ち砕かれた幻想――食、農業、そして自由についてあなたが知っていると思い込んでいたすべてを覆す)』の著者でもある。同書は、ヴィーガンシェフ兼ロサンゼルスのレストラン経営者から、土にまみれて働く農家へと転身した彼女の歩みと、いかにして自然が自らの文化的プログラミング(刷り込み)を打ち砕いたかを赤裸々かつ刺激的に綴った記録である。
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