6カ月に七十余りの城を攻め落とし、諸葛孔明でも憧れた名将は誰?(二)
連合軍が速やかに斉を攻め落とし、燕軍を斉の各地に配置し、国民を安心させることによって民心を得られ、斉を征服できると楽毅は考えていた。しかし斉の将軍・田単は反間の計を用い、「楽毅は6ヶ月で七十余りの城を落とせたが、なぜ3年かけても即墨と莒を落とせないのか? その理由は楽毅が自ら斉王になろうと企んでいるからだ」と、流言を流した。
6カ月に七十余りの城を攻め落とし、諸葛孔明でも憧れた名将は誰?(一)
楽毅(がく き、生没年不明)は魏の出身で、祖父の楽羊は魏文候に仕えた武将であり、かつて中山国を滅ぼした。戦功の褒美として中山の首都・霊寿を授けられ、その後、楽羊とその子孫は霊寿に住み着いた。