≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(56)
【大紀元日本1月7日】 奇縁により謝家に身を寄せて 1951年の春、養母は閻家後屯に新しく作られた村に引っ越す準備にとりかかり、私は向かいの謝家にあずけられました。私が謝家に住まうことができたのは、
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(55)
【大紀元日本12月21日】私たち二人が旅館に戻ると、大人の人たちが車座になって何やら相談をしていました。 私たちは一人として知り合いもおらず、その大人たちも私たち子どもにはかまっていられないようでし
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(54)
【大紀元日本12月13日】区役所の人たちが私たち子どもに、「明日、東京の町に行って会合に出なければいけない。皆朝早く駅に集合すること。遅刻しないように」と言いました。 翌日、私は朝早く駅に行きました
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(53)「日本人孤児が集められて…」
【大紀元日本11月28日】私は沙蘭鎮の小学校に上がってから、弟の趙全有を見かけました。それはまさに可愛く聞き分けの良い弟でした。彼に会っても話す間がありませんでしたが、弟はこの二年の間に背が伸び、端
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(52)
【大紀元日本11月10日】 入学後の平静な日々 入学した初日、私は李秀珍や家の西に住んでいた王秀琴と一緒に学校に行きました。彼女ら二人は三年生の学級でした。李秀珍と王秀琴は、私のために先生を捜し出し
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(51)「初めて作った布靴」
私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(50)「トンヤンシーの事実を耳にして」
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(49)「気弱になった養父」
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(48)「慈悲深い養父と孫おじさん」
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(47)「物乞いの辛い日々」
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(46)「パンを恵まれて」
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(45)「乞食を強要されて」
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(44)「掃討隊に吊るし上げられた養母」
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(43)「あわや掃討隊に連れて行かれそうに」
あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(42)「土地改革運動の嵐」
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(41)「養母の生い立ち」
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(40)
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(39)「あわや井戸の中へ」
私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(38)「日本人妻との出会い」
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(37)「二度目の引っ越し」
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(36)「帰国の望みが断たれて…」
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(35)「頭に大怪我」
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(34)「引っ越し」
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(33)「近所の子供たちと過ごした楽しい日々」
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(32)「慈愛に満ちた養父」
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(31)「血だらけで担ぎ込まれた養父」
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(30)「『お馬鹿さん』と呼ばれ…」
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(29)
私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(28)「中国人の養子に…」
養母の苛めに遭う 私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(27)「母との永遠の別れ」
実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。