【大紀元日本5月2日】福島第一原子力発電所から半径20キロ圏内が「警戒区域」に指定され、立ち入り禁止が発表されたことを受け、大紀元は先月22日、福島第一原発の25キロ圏内の福島県南相馬町や宮城県内の被災地に行って被災状況を取材した。
22日早朝、本紙取材チームは車で東京から被災地に向かった。常磐高速道路で水戸を過ぎてから、車の通行量があきらかに減少した。福島に近づくにつれて、震災のつめ跡が次第にひどくなっているのが確認できた。高速道路のサービスエリアに止まっている車両はほとんどが工事関係者や自衛隊のものであり、一般車両はあまり見かけない。
福島原発から半径30キロ圏内に入ると、人の気配がなくなり、たまに通り過ぎる車両も、自衛隊または警察のものである。それに、野良化した犬・猫を随所でみかけた。飯館村では、痩せ細った一匹の大型犬に出くわした。空腹のあまり、その犬は差し出したパンを2、3口で平らげた。
空腹のあまり、記者が差し出したパンを2、3口で平らげた犬(芦勇/大紀元)
20キロ圏内区域に入る幹線道路では警察の検問所が設けられている。圏内の住民には撤退の通告が出されており、許可なく圏内に入ることはできない。検問所の警察官の説明によれば、22点xun_ネ降、区域内の住民は一世帯あたり1人のみ、警察官同伴の下で自宅に2時間まで戻ることができるという。
福島県葛尾村は屋内退避区域、通行人の姿はなかった(曹景哲/大紀元)
20キロ圏内区域に入る幹線道路に設けられていた警察の検問所(芦勇/大紀元)
結局、飯館村周辺の山中を回って2時間後、ようやく福島県南相馬市に到着した。ここは第一原発の25キロ圏内であり、屋内退避区域に指定されている。道には通行人の姿はほとんどない。まず市役所を訪れた。所内では各種手続きを行う市民が列を作っていた。
市役所の記者クラブで、毎日新聞社南相馬市支局の記者に出会った。その記者によると、原発事故後、各大手メディアの取材班は同市から撤回した。いまでは、原発の半径30キロ圏外で取材活動を行っている。この記者自身も福島市内から通っており、携帯している放射線量の測定機器の数値からみると、市内の線量は平常時に戻りつつあるという。「もう、あまり被ばくを恐れていない」とその記者は付け加えた。
市役所を出たのは夕方頃。海に向かって車を走らせること10分。目の前に現れた光景に言葉を失った。至るところに倒壊した家屋と散乱した家財道具が散らばっており、日が落ちて空も暗くなってきたこともあり、思わず恐怖感が襲った。
南相馬市の原発に近い沿岸部では、まだ復旧作業が行われていないもよう(曹景哲/大紀元)
その日の夜は、仙台市で宿泊した。
翌日の23日、石巻市内に向かった。途中、日本三景の松島を通過した。ここでは、今回の地震・大津波による建物の被害は比較的少なかったが、相当な数の船が陸地に押し上げられたという。取材当日には船も海に戻されており、市内の片付けは一段落していたようだった。一部の娯楽施設も営業を再開させていた。
さらに車を走らせると、石巻港に到着した。同港に隣接する日本製紙の石巻工場は大津波で壊滅的な被害を受けた。港には津波に破壊された自動車が山積みになっている。この日は雨・風が強く、広大な港には人の気配がまったくなく、巨大な貨物船が岸辺に座礁したままである。
石巻港に隣接する山西・造船所の建設中の貨物船が津波に流され、大橋を破壊した後、再び港に流されて座礁したままになっていた(芦勇/大紀元)
石巻港に隣接する日本製紙石巻工場の被災状況。レールは工場内専用の輸送鉄道(芦勇/大紀元)
結局、この日は、石巻市内の避難所2カ所を取材した。中学校の体育館に設置されたこれらの避難所は、南側の福島県の避難所に比べると、日常生活に必要な条件は整っているとはいえない状況だった。被災者は世帯ごとに生活スペースが区切られておらず、プライバシーの保てる個人の空間がない。しかし、各地から送られてきた生活必需品は足りており、全国各地からボランティア団体が炊き出しなどの支援を行っているという。
避難所での取材中には、障害者スポーツ選手のボランティア団体が食品を運んできた。また、法輪功学習者にも出会った。心身ともに疲れきっている被災者に中国の気功健康法を教えるため、ここ1カ月間、グループで各避難所を回っているという。現場では、気功の動作を熱心に学ぶ被災者から、歓迎する声が多く聞かれた。
2日間の取材で、多くの被災者に出会った。家族を失った人、家を失った人など、……。最も印象深かったのは、皆とても沈着冷静だったことだ。
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