法輪功の創始者で、神韻芸術団の芸術総監督でもある李洪志氏の財務に関する某西側メディアの報道に対して、記者は李氏にインタビューを行い、詳細を尋ねた。(【特別報道】神韻芸術団が所有する2億6600万ドルの資金はどこから得られたのか)
では、1992年に中国の長春で公の場に登場してからの長い年月、法輪功の創始者である李洪志氏がどのような生活を営んできたのか。
私たちが率直に質問すると、李氏は快くご自身の話を聞かせてくれた。
1992年、中国・吉林省長春市で開催された気功に関する交流会で、初登場した李氏は、人々が議論している問題についての李氏の見解を述べた。 話し始めてわずか数分で、聴講者が驚愕したと言う。それがきっかけで、当時長年の気功愛好者数人が、李氏に「気功の講習会を開こう」と助言し奨め、会場を手配した。すぐに長春市第五中学で初めて法輪功の講習会が開催された。
当時、気功の講習会は「功を施す報告会」とも呼ばれ、平たく言えば病気を治療するための講習会だった。その日は多くの病人が訪れ、「ああ、痛い、痛い」と苦しむ声をあげる人もいれば、点滴をつけたまま来る人までいた。こうした人々は、熱心な気功愛好者たちが連れてきたのだった。
李氏は、「私は、あそこで、一人ずつ体を整えてあげた」と言った。やがて、まったく立ち上がれず、半身不随の人も含め、全員が数秒で立ち上がることができるようになったと言う。
李氏は「さあ、今なら歩けますよ!」と言うと、病人たちは歩き始めた。
そしてさらに李氏が、「今度は走れますよ!」と続けて言うと、彼らは奇跡的に走り出した。
周囲の人々は驚愕し、口をあんぐり開けて見ていた。
「これは一体どういうことだ?」と、誰もが驚きを隠せなかった。
長春市第五中学校でのこの出来事が口伝えに広まると、李氏にあちこちから招待状が届くようになった。これが法輪功が伝わり広まるきっかけとなり、人々は李氏を「李大師」と尊敬するようになった。
この時、ある人が李氏に提案した。「中国国家気功協会で鑑定を受けると、これからどこへ行っても活動がやりやすくなるはずです」
李氏はこの提案を受け、中国国家気功協会を訪れた。協会の職員は李氏を見るなり驚き、「こんなに若い人は見たことがない!」と言った。そして、鑑定を行うことになった。鑑定とは「功を施す報告会」を行うことであり、協会側は、他の気功師が治せなかった慢性病や頑固な疾患を持つ患者を集めた。李氏がエネルギーを発し始めると、多くの患者がその場で症状の改善が見られ、または完全に治癒した。
この結果により、会場が熱狂し驚きに包まれた。
特筆すべき点は、40歳を少し過ぎたばかりの李氏が講座の中で、気功愛好者が長年理解できなかった多くの理論を明確に解説したことである。この説明により、聴衆は深く感銘を受けた。
講座の終了後、中国気功協会は李氏と面談し、次のように提案した。「北京に留まり、協会の下で活動してほしい。全国各地で講演会を開くことができるようにする」
当時の中国気功協会は政府から高く評価されており、国家体育委員会の傘下に属していた。国家体育運動委員会の呉紹祖(ごしょうそ)主任から任命された張振煥(ちょう しんかん)将軍と、著名な物理学者である銭学森(せんがくしん)氏の全面的な支援を受け、当時「周辺科学」と呼ばれる非常に流行の学問となった。
そうした社会情況のもと、李氏は法輪功を伝え始めた。李氏の願いは、ただ法輪功をできるだけ普及させることのため、受講料は非常に少なく、9日間の講習会で一人当たり20元程度(1992年のレートで1元約4.2円)だった。徴収した資金は一行が電車で移動し、食事をし、資料を印刷するのに充てられたため、講習会が終わる頃には、手元に資金が残ることはなかった。そういう状況で、李氏の経済状況は非常に厳しかったという。
当時、地方で気功を伝えるための移動は基本的に列車で行われた。寝台車は高価で手が届かず、硬座(普通座席)を利用するのが一般的だった。編み込みの袋に入れて常に持っていたのは『気功紹介』の小冊子や大量のインスタントラーメンだった。
食事はほとんどインスタントラーメンで済ませ、たまに街頭に出て、屋台の麺を食べてすませる程度であった。2年間で54回の対面学習の講習会を開催したが、スタッフたちはインスタントラーメンを食べ飽きてしまった。そんな中、李氏は同行するスタッフに「私についてくるというのは苦を嘗めるということです」と諭した。
後に、講法や講習会の録音から文字起こしをして、『中国法輪功』の原稿をまとめたが、出版する資金がなかった。その後、偶然出会った縁ある人物が5千元を貸してくれたおかげで、ようやく出版が実現した。書籍を販売して得た収益は、まずその人物に借金を返すために使われた。
その後、条件が少し良くなり、法輪功の主要著作である『転法輪』を出版した。さらに後に、経済的に余裕のある弟子たちが現れ、李洪志氏の書籍出版や各地での法輪功を伝える活動を支援するようになり、移動や講習会開催の条件が大幅に改善した。
1992~96年の4年間、法輪功は病気が治癒し、健康を促進する不思議な効果、安い費用、そして李洪志氏が講じる「真・善・忍」を中心とした功法理論により、深い共感を生んだ。その結果、法輪功は中国大陸で急速に広まり、修煉者(学習者)の数は、幾何級数的に拡大していったと言う。当時、北京の長安街の両側では、早朝から煉功をする人々が長い列を作る光景が見られた。北京は、中国共産党の中枢が位置する場所であり、この現象は全体主義の中国において、最高権力者の猜疑心を引き起こした。
李氏によると、彼ら(中共の上層部)は李氏を陥れようとしたが、それは容易ではなかった。なぜなら、第一に、李氏は金を持たず、第二に不倫をせず、第三に不動産すら所有していなかったからだ。李洪志氏は既に名声を得ていたが、多くの取り巻きに囲まれ、金を稼いで裕福な生活を送っていた他の有名な気功師たちとは異なり、北京では軍事博物館近くの兄弟の家に居候していた。こうした状況では、彼らが李洪志を攻撃する口実を見つけるのは難しかった。
しかし、最終的に当局は最後通告をした。1996年ある日、商務部のある司長が李氏を食事に誘った。李氏はいつものように、食事を通じて病気を治療するための依頼だと思い気軽に応じた。しかし、席につくと相手は直接本題を切り出した。
「あなたは現在、中国国内で影響力が大きすぎる。中国を離れてほしい」
これが李洪志氏が中国を離れることになった理由だ。彼は中国本土にいる弟子たちの安全を考慮し、国外に出る準備を進めるしかなかった。その名声と数多くの賞賛があったため、アメリカが人間として重要視する「自己の才能および能力」によるビザ申請が非常にスムーズに進み、すぐにアメリカ政府から在留資格を得た。
1998年、李氏は妻と娘を連れて中国からアメリカに向かった。まずアメリカのカリフォルニア州に行ったが、定住するための条件は何もなく、アトランタに行き、そこで12万ドルの2階建ての家を見たが、家を買うための資金は全くなかった。しかもその家は道路に近く、交通騒音が非常に大きいため、アトランタを離れてニューヨークに行く以外に選択肢はなかった
ニューヨークに到着した一家は、まず学習者が好意で貸してくれたワンルームのアパートに滞在した。このアパートがある建物は、後に中国共産党の秘密機関が撮影し、「李洪志の不動産」と誹謗した。
その後、フラッシングにある簡素なタウンハウスに引っ越した。騒音がひどかったため、新たにニュージャージー州の一軒家に移った。この一軒家は、弟子の一人が購入し、師父である李氏に住まわせたものだった。この一戸建ての家は3千平方フィートと比較的大きいが、実際にはアメリカの普通の家だ。 そのため、中国共産党の秘密工作員がこの家に来て写真を撮り、「李洪志のもう一つの豪邸」として公表した。
その後、迫害がますます深刻になり、状況がますます危険になると、李氏は、自分の家族を家から出し、他の学習者が提供する仮の宿泊施設に移るように手配した。情況が落ち着いてからは、中国共産党に見つからないように、車に乗ってアメリカ中を走り回り、居場所が見つからないようにしたという経験が1年近く続いた。
2000年、ある弟子がマンハッタンから2時間のニューヨーク州に、現在の龍泉寺がある山の土地を購入した。 小さなバンガローが建っている他は不毛の地であったが、李氏は時間のある時はそのバンガローに住むようになり、数人の弟子と一緒に少しずつ龍泉寺、施設を建て始めた。
初期の頃、誰もお金を持っておらず、必要な費用はすべて弟子たちが自腹を切って賄っていた。工具が足りなければ自分たちで購入し、ほとんどの作業は手作業で進められた。このようにして、一歩一歩この場所を築き上げることに多くの弟子が数年間にわたり労働と献身を捧げた。神韻の運営が始まり、数年後にようやく収益が生まれ、状況は徐々に改善されていった。
師父を敬うあまり、多くの弟子たちが李氏にたくさんの茶葉を贈った。そのため、龍泉寺は茶室を開き、そのお茶でみんなをもてなし、軽食も提供した。料金を取るべきだと言う人もいたが、李氏は茶室は料金を取らないように言った。その理由のひとつは、お茶を飲みに来る人の多くは龍泉寺で働くボランティアで、彼らは一生懸命働いているのに、どうしてお金を取ることができるのか、ということだった。その後、龍泉寺の外の弟子たちが師父に贈った多くの食べ物についても、李洪志はそれらを茶室に送るよう指示したり、みんなで分けて食べたりするようにした。これも弟子たちへの思いやりからの行動であった。
私たちは、李氏に20年以上仕えてきた助手の一人にインタビューを行い、彼の印象を伺った。その助手はこのように語った。
「師父の生活は非常に質素だ。朝は早く起き、夜は遅く寝る。日常のことはすべて自分でこなしており、洗濯も例外ではない。朝は自分の服を手洗いし、自分で干すなど、龍泉寺にいようが、神韻芸術団のツアーで龍泉寺の外にいようが、すべて自分でこなしている。師父は芸術的なセンスが非常に優れている一方で、服装に関してはとても簡素だ。シャツ1枚、ジーンズ1本を何度も長期間にわたって着用することが多い」
李氏の生活についてのインタビューを終えたところで、彼はどのようにして、神韻芸術団の若手芸術家や飛天芸術大学の学生たちを指導しているのだろうか。これについては、次回の記事を楽しみにしていただきたい。
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