近頃、70、80年代の映画を見た人はいるだろうか。その頃の映画には、現代の人々にとって興味をそそられる要素が散りばめられている。けれども悲しいかな、もうあの頃には二度と戻れないのである。
80年代といえば、世の中のデジタル化が進み、社会全体が電子機器に依存し、常に監視と情報過多にさらされるようになる前の、最後の時代だ。SNSが若者を堕落させ、スマートフォンが知識階級の仕事を奪い、お年寄りがネット詐欺師の餌食になる前の時代だ。
人々は実体のある世界で、信頼、学び、コミュニティの上に成り立つ人間らしい生活を送っていた。人はただ消費するだけの存在ではなく「社会の財産」であり、知性と才覚が重んじられた。
当時、人が車でどこかへ出かけようとする時、目的地までの道のりを知っている必要があった。未知の場所であれば、地図を調べたり道行く人に尋ねたりした。結果として、人は身の回りのものに注意深くなり、方向感覚を養うことができた。
携帯電話が普及する以前、電話は机や壁に固定され、ボタンを押して操作した(ダイヤル式の後継機)電話がなっても、誰がかけてきたかわからない。映画では、この固定電話がドラマチックな展開に一役買っていた。それは脅しの電話かもしれないし、愛する人からの電話かもしれない。いずれにせよ、電話に出ることは驚きに満ちていた。
レストランで食事をする時、普通は電話から離れている。もし誰かがあなたの居場所を知っていれば、レストランに電話をかけ、ウェイターがあなたを呼びにくる。そこではじめてあなたは席を外し、電話ボックスへと向かう。
ガラスで覆われた小さな電話ボックスには行列ができていて、前の人の会話が終わるのを待たなければならないことがある。そのため、人々はできるだけ会話を短く終わらせるようにした。
市外に電話をかける場合、長距離通話料金を支払う必要があった。自宅からかければ増額分の請求書が送られ、公衆電話ならたくさんの小銭を投入する。お金がなければ、話すこともできない。そのお金も、コインや紙幣といった物理的な実体だ。銀行サービスを受けるには店舗へ行くほかなかった。
他人の居場所がわからないような時代では、人々は信用、約束、ルーティーン、手がかりなどに頼るしかなかった。夫の帰りが遅くなれば、いつ帰宅するか見当もつかない。もしそれが常態化し、夫がいつも言い訳を並べるようになれば、妻は当然、夫が浮気をしているかもしれないと思い込むだろう。
ネットに繋がれていない状態が普通の世の中では、誰かと連絡が取れないことはしばしばあった。毎週仲間とカードゲームをするジャックが突然欠席し、ジャックの妻に確認すると自宅にもいないと聞かされ、仲間はジャックが心配でパニックを起こす。昔の映画ではよくあるシーンだ。
カードゲームと言えば、男同士のコミュニケーションは、Zoom会議でもなくSNSの投稿でもなく、カードゲームを通じて行われていたように思われる。女性ならば友人とお茶をしたり夜遊びに出かけたり、家族ならばピクニックへ行ったり遠足をしたり。人は旅の行き先を大切にし、現実世界を思いっきり楽しんだ。
ホテルに到着すると、テレビをつけてエンタメ番組を見るかもしれないが、大量のメールやメッセージに煩わされることはない。あらゆることから離れるということは、本当に全てから離れることを意味した。
ビジネスの場では紙の契約書に目を通し、実際にペンで署名をする。タイプが必要となれば、タイピングマシーンを使って紙に直接文字を打ち込んだ。書類を先方に送る時は郵送し、郵送の途中で紛失することもあった。電報は、非常に重要な意思疎通の場合にのみ使われた。
連絡先は机上のファイルや名刺入れに保管され、必要な時にページをめくって探した。離れた人間同士の連絡頻度こそ低かったものの、コミュニケーションの質は高かった。
公共交通機関に乗る時は、新聞や本を読んだり、あるいはただ車窓からの景色をながめたりした。街を歩いたりお店で買い物をしたりする時には、自然と周りの人と会話を弾ませた。アイコンタクトは、お店でもオフィスでも大切な非言語コミュニケーションの手段であった。
当時は外見が第一印象に直結するため、身なりも重要だった。人々は、他者にできる限り良い印象を与えられるよう、身だしなみには大変気を遣った。
初対面の人物と会う際は、本当の意味で初対面だった。インターネットの人物プロフィールをざっと見て予習しておくといったことはありえなかった。初めて会う者同士の会話は、まず互いを知ることから始まった。
そのような時代では、人は過ちを犯すことはあっても、人生をやり直すことができた。自分が何者であり、どのような価値観をもっているかについて、何を語るかは全くもって本人に委ねられていた。
人々は、過ちの度に改心し、過去に束縛されない生き方ができた。そして、第二の人生、第三の人生をスタートする。もし誰かが悪評に見舞われていたなら、それは彼(彼女)が悪い評判を蓄積したことに原因がある。しかし、「人の噂は七十五日」と言われるように、どんな評判も時間の経過とともに忘れ去られていった。
調べ物をするときは、図書館へ行き書籍や古い新聞を読む。図書館だけが、出版物、組織団体、他の土地やそこに住む人々など自分の生活圏を超えて見知らぬ世界を知ることができる唯一の場所だった。
どの家にも書斎が置かれ、その蔵書を通じて家主の関心や学識、社会的身分について豊富な情報を得ることができた。子供なら、朝食の時間にシリアルの入った紙箱の文字を読む。
音楽が聴きたければ、ラジオをつけてトップ40を流す番組に耳を傾けたり、特定のジャンルの放送局を探したり、レコードショップへ行って棚を物色したり……ターンテーブルに乗せたレコードは30分前後で音楽が止まってしまうため、その都度レコードを交換する。
お店の品揃えによっては、聴ける音楽にも限りがあった。また、レコードを集めるにはスペースが必要となるだけでなく、消耗したレコードは音質が劣化したり、曲を飛ばすようになってしまう。
ITを活用して場所に縛られず仕事をする人、通称「デジタルノマド(digital nomad)」は存在せず、家で家事をするかオフィスで仕事に勤しんだ。取り組むべきことは場所が決定づけた。
現代的な生活との違いは一目瞭然だ。
現代人は、空港での待機時間、電車に乗っている時間、あるいは公園のベンチでくつろいでいるときでさえ、「心ここに在らず」だ。人々は手に握った薄い箱をじっと見つめ、休むことなく世の中の出来事に神経を尖らせる。
人々は目を合わせることも少なくなった。人が相手を見なくなるにつれて、視覚情報の重要性は低下した。携帯から目を離すのは何か明確な目的があるほんの一瞬だけで、それが達成されれば再び画面をスクロールし始める。集中力の持続時間は数分、数秒へと短くなり、今では読書をする人がどれほどいるのかすらもわからない。
世の中がデジタル化した恩恵は当然ある。毎日多くの読者に向けて記事を執筆できるし、世界中の出来事がインターネットを通じて得られる。オンデマンド出版は書籍の出版費用を大きく低下させた。
ウェブであらゆるモノが注文でき、商品なら数日、フードデリバリーなら1時間以内で家に届く。私が子供の頃、シリアル箱の一部を切って集めて送るとおもちゃと交換してもらえるキャンペーンがあった。おもちゃの発送には6〜8週間かかり、キャンペーン終了などの理由で届かないこともあった。今の世の中は昔に比べ圧倒的に便利になったが、その便利さゆえに我々は忍耐強さを失ってしまった。
銀行残高については父の時代と同じように小切手帳で管理しているが、請求書を郵送で支払うなんて、絶対にしたくない。音楽はストリーミングがすごく好きだ。古今東西の曲が配信されているし、100時間連続で楽曲を流してくれる局も見つかる。
現代のテクノロジーは生活を豊かに、便利にした一方で、我々はそれ相応の文化的な代償も支払っている。私は時々、人間のプライバシー、自主性、交流、人間らしさの根本にある価値観が、完全に、そして永遠に締め出されたかのような感覚に襲われる。さながらディストピア小説の描く世界だ。
アナログ時代を懐古する気持ちに押しつぶされ、昔に戻りたくなることがある。実現するはずのない理想を思い描き、ノスタルジーに浸ることは贅沢だということは自覚している。我々は、ある種選択的な、美化した記憶に浸ってるに過ぎず、19世紀を思い出すようにアナログの頃を思い出す。印象の良い作曲家や書物、大統領のことだけを覚え、悪い出来事はすっかり忘れているのだ。
とはいえ、デジタル化した世の中が人間らしい、文明的な社会をもたらすのか。家族、コミュニティ、そして人類がデジタルツールと共存できるのだろうか。それはわからないが、そのような時代が一刻も早く到来してほしい。現状の道筋では悪化が避けられず、持続不可能だからだ。読者の方にはぜひ50年前の映画を見てもらい、一緒にこの問題を考えてほしい。

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