なぜ国境管理が必要なのか

2025/11/04 更新: 2025/11/04

この文章を書くのは正直つらい。私自身今までずっと「国境を開くべきだ」と信じてきた。その立場を文章や講演で広めてもきた。けれど、今はその考えを完全に否定している。だからこそ、自分がなぜ考えを変えたのかを説明する責任があると思う。ここでは、現実から乖離したイデオロギーが、どれほど真面目で知的な人間をも不条理な方向へ導くのか、その一例として読んでもらえればと思う。

筆者が「国境開放」を信じるようになったのは大学時代だ。米国にはすべての人を受け入れる能力と道徳的義務があると信じていた。確かに移民の波は社会的・経済的・人口的な混乱をもたらす。だが、自由な人々と自由な制度があれば、それは乗り越えられるものだと思っていた。

自身の歴史理解もこの考えを裏づけているように見えた。歴史をたどれば、米国は移民の国であり、自分のルーツも植民地時代の初期にまでさかのぼる。祖先はテキサスに移り住み、その後のドイツ系移民の波を受け入れる道を切り開いた。19世紀後半、米国は膨大な数のアイルランド人とイタリア人を受け入れたが、1920年代初頭に国境を閉ざし、その結果は悲劇的だった。筆者には、国境を開く以外の政策を取る理由が見えなかった。

当時、私はテキサス州にいたが、国境地帯の多くの人々はすでに問題を理解していた。だが、私は彼らの声に耳を貸さなかった。犯罪や費用の負担に直面していた地主や市の職員、現場の人々の訴えを、人権を信じない不平家の愚痴として片づけていた。

この考えは、自由と人権の原則を一貫して適用すべきだという信念から生まれた。私はキャリアを通じて、国境開放主義の立場を貫いてきた。だが、その背後にある複雑な問題、特に市民権の意味とその含意については、当時まったく考えていなかった。

以前の主義思想に最初の打撃を与えたのは、福祉国家をめぐる議論だった。本当に無限に人を受け入れ、彼らを公共の福祉制度に依存させることができるのか。そんなことは明らかに不可能だ。研究を見ても、そのような試みをした社会は分裂に向かうことがほぼ明らかになっている。外国からの移民の生活を支えるために現地の住民が負担を強いられれば、深刻な不満と激しい怒りが生まれるのは避けられない。

この問題への理性的な解決策は一見単純だ。福祉給付を打ち切ればいい。それで解決、というわけだ。だが現実はそう簡単ではない。たとえ福祉がなくても、新しい住民の流入は住宅や学校、道路など公共インフラに新たな負担をかける。結局、その費用は生まれながらの国民が税として負担せざるを得ない。

この時点で、私の国境開放主義は揺らいだが、完全には崩れなかった。

無制限の移民には、さらに深刻で扱いの難しい問題がある。それは投票権、すなわち国民が自らの政府の形や性質を決定・管理する力に関わる問題だ。憲法修正第14条と現在の法案解釈によれば、米国の領土で生まれた子どもは自動的に米国人となり、成人すれば投票権を持つ。この仕組みが、政治に重大な影響を及ぼしている。

この米国という立憲共和国で政治指導者を選ぶ方法は一つしかない。それは選挙だ。その選挙に真実と誠実さがなければ、そして人民による統治という米国の実験全体を支える国民投票が損なわれれば、すべてが失われる。

そして、これは悪意ある者によって利用されうる脆弱性でもある。言い換えれば、与党は権力を維持するために、選挙制度を巧みに利用しようとする誘惑に駆られる可能性がある。

これは一見すると技術的な論点に思えるが、実際には今回の問題と深く結びついている。1994年、オーストリア学派の米経済学者であるマレー・ロスバードはある重要な論文を発表した。当時の私はそれをなぜか軽視していたが、今振り返れば、政治的力学を理解するうえで極めて示唆に富む内容であった。

ロスバードは、当時公開されたソ連の公文書を精査する過程で、この問題の核心にたどり着いている。その文書によれば、ヨシフ・スターリンはソ連全土に対する支配を確立するため、ロシア系住民を各地へ計画的に移住させ、領土の実効的掌握を進めていたという。

ロスバードはここに注目し、反抗的な国民に対する支配を強化するために、独裁者が移民政策をどのように活用できるかを初めて理解した。そして、もし全体主義体制のように真の民主主義の仮面すらない国で可能なのなら、立憲共和国でも同じことは起こり得ると考えた。特に、投票を尊重し、それを統治の中心に置く国では、より容易に影響を与えられる可能性がある。

これは米国にどのように当てはまるだろうか。カリフォルニア州の例を考えてみよう。長年にわたり、同州は保守的で共和党を支持する州だった。しかし、1990年代になると、主に人口構成の大きな変化によって状況が変わった。移民の増加だけが理由ではなく、新しく移住してきた人々の中には共和党に投票する人も多かったが、微妙な差が最終的に決定的な影響を与えた。カリフォルニアは完全に政治的色を変え、その結果、全国レベルで民主党の運命を変え、共和党にとっては状況が一層厳しくなった。

この変化を目の当たりにした民主党には、問題のある道徳的リスクが生じた。もしかすると、彼らはこの戦略を全国で繰り返せるかもしれない。制御されない移民の波を受け入れることで、長年共和党が安定していた州の投票パターンを大きく揺さぶり、民主党がこれまで手の届かなかった地域でも地歩を築けるのではないか。残念ながら、2021年から昨年にかけて国境が事実上開放された結果、このような状況が実際に起こったようにみえる。

こうした状況を目の当たりにすれば、自由および誠実な政府を信奉する者なら、移民主義の立場を再考せざるを得ない。目にしたものは、単なる制度の操作ではなく、正直な選挙に基づく米国の全体的な政治実験の中枢神経系を揺るがすような操作に見えた。

この流れを見ることは、人権の尊重だけで議論がすべて解決すると思っていた理想主義者への挑戦でもある。実質的には、これは自由のための行動ではなく、むしろその正反対の結果を生んでいたのだ。

最後に、我々が直面すべき問題がある。それは「国家とは何か」という問いだ。その答えには多くの要素が関わるが、根本的なものは国民が自らの生活する制度をある程度コントロールする力を持っているか否かにある。

全国規模の国民投票は存在するが、世界規模の国民投票は存在しない。グローバルな政府では、市民による統制はゼロになる。だからこそ、個々の国家という存在は自由のために不可欠なのだ。

グローバリストたちは、国民が政府をコントロールする力を弱めるために、国家そのものを弱体化させることを目論んでいる。国境の開放はその計画の一部であり、自由の表現としてではなく、人々の自由を奪い、統制できない形態の政府に置き換える手段として用いられる。

避けようのない事実だが、自由な人々には国家が絶対に必要だ。国家には、市民権とは何か、市民権が何を伴うのか、誰が市民と呼ばれるのか、そして非市民が選挙に参加できないようにする方法についての明確な考えが必要である。これらが欠ければ、自由そのものが新たなグローバリストの指令センターに奪われてしまう。

私の思想上の良き友の中には、私よりもはるかに早くこの事実に気づいていた人たちがいた。ピーター・ブリメロー、ハンス=ヘルマン・ホッペ、ラルフ・ライコ、ミルトン・フリードマン、そしてF.A.ハイエクなどは、私がようやく考えを改めるずっと前から、この問題の本質を理解していた。

もちろん、米移民関税執行局(ICE)の職員が企業や町に押し入り、善良な人々を逮捕して強制送還する映像を見ると、私は強い違和感を覚える。誰に対してもそうしたことが起こるのは望まないし、より良い制度があればと心から思う。しかし、トランプ政権が対応を迫られた問題は、そもそも発生すべきではなかった。

より適切な外国人労働者制度が求められる。市民権取得の基準も、より明確にすべきだ。出生地主義に基づく市民権は、憲法修正第14条によって自動的に保障されるべきではなく、最高裁はこれを見直す必要がある。理想的には、市民の安全と米国の制度の健全性を損なわず、かつ冷笑的な策略に左右されない、広く歓迎される移民政策が実現されるべきだ。

移民の基準や執行方法については、正当な議論が数多くある。私自身も多くの点でまだ考えが定まっていない。しかし、それでもなお、開かれた国境という幻想を捨てるべきだ。これは政治的操作、社会的混乱、そして最終的には専制に至る道であり、許されるものではない。自分がそれに気づくのが遅れたことには、深い恥ずかしさを覚えている。

ブラウンストーン・インスティテュートの創設者。著書に「右翼の集団主義」(Right-Wing Collectivism: The Other Threat to Liberty)がある。
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