空前絶後の平和運動-『九評共産党』発表2周年を迎えて-

2006/12/21 更新: 2006/12/21

【大紀元日本12月21日】法輪功が弾圧された当初、江沢民を党首とする中国共産党は、この団体を消滅するには3カ月あれば十分だと考えていた。当時の中国問題専門家や学者達も法輪功が堅持できるのは数週間だろうと推測していた。これらの学者達はただ書物上で推論していたのではない。実際、数百万人が参与した1989年のあの民主運動が、機関銃と戦車の弾圧の中、数日で潰された。経験は人々にこう教えているようだ、中国共産党の暴力で始めた弾圧は、やがて彼らがいかに「偉大、光栄、正確」であるかを吹聴する祝賀会で終わるだろう。

弾圧された者が直面する苦境はかつてないものであり、人類史上ほとんど参照できる事件はないと言える。 道は三つだけある。一つ目は、当局が自発的に弾圧を停止することだ。このような考えは少し幼稚でおかしい。もし当局がこのような知恵を備えているならば、弾圧は初めからまったく発生し得ないだろう。二つ目は暴力による抵抗だ。あなたは弾圧を終結したくなければ、では我々であなたの統治を終結させていく。しかし、暴力による抵抗は中国で成功するのは至難であり、当局の掌握した暴力と民間のとは完全に比較にならないからである。しかも、至るところにある中共のスパイシステムと厳密にコントロールされた組織体系により、社会はすでに粉末と化している。目に見えるいかなる力も効果的に凝集する前に、中共に発見され、潰されるだろう。更に肝心なのは、法輪功の提唱した「真、善、忍」の理念は、根本的にいかなる暴力をも許さないからである。

それでは、「非暴力・不服従」という道しか残らない(法輪功に対する信仰を放棄するという道もあると言われるかもしれないが、このような原則放棄の考えはここでは討論しない)。

歴史上「非暴力・不服従」運動は確かに三回成功している。インドのガンジーが指導した独立運動、アメリカのマーティン・ルーサー・キングの公民権運動、そして南アフリカのネルソン・マンデラの反アパルトヘイト運動である。

もし学者の角度から分析するならば、私たちが気落ちせざるをえない結論を得ることになる。というのは、この三回の運動が成功した由縁の重要条件を、法輪功はほとんど持っていないからである。

まず、前三回の非暴力抗争の相手は良知を備える団体である。そのため、抗争者が弾圧される時、彼らの苦難は弾圧者にとって良心の呵責をもたらす。マーティン・ルーサー・キングはかつてKKKメンバーにこう話したことがある、「私達は自分たちの苦難を辛抱する能力で、あなた達の苦難を造る能力に対抗する。私達は私達の魂の力をもって、あなた達の物質的暴力を防御する。……間もなく、私達は苦難を辛抱する能力であなた達の憎しみを消耗し尽くすことができる。私達が自由を得る時、私達はあなた達の良知を呼び覚まして、あなた達の心を勝ち取るだろう」。

この条件は、中国共産党に対してはまったく当てはまらない。これは悪事をやることにタブーのない犯罪集団である。大飢饉が発生し、餓死死体が一面に横たわった時、救済どころか、軍隊を派遣して道路を封鎖し、庶民が飢饉の地を逃れて物乞いをすることを禁止したため、3000万の人を無残にも餓死させたのである。天安門民主運動が発生した時、戦車のキャタピラー、毒ガス弾、目標物に当たった後粉々に爆発するという銃弾などで、全くの素手である学生を殺戮した。法輪功への弾圧では、無残にも法輪功学習者の臓器を生きたまま摘出し、金儲けに使い、そしてまだ呼吸や心臓が止まってない学習者を死体焼却炉に放り込んで焼き殺した。この党は、残忍で血生臭く、良心のかけらもない。松花江のベンゼン汚染とSARSの隠蔽など、民衆の生死は中共の考慮する問題ではない。いかなる苦難も元々良知のないこの邪教を呼び覚ますことはできないのだ。

その次に、非暴力の運動はインド、南アフリカ及び米国ではメディアによる広範な報道があり、その信念と目的は広く知られ、その抗争する過程は世論と人心の支持を得ていた。中国の場合、メディア全体が法輪功のために発声しないばかりか、弾圧者の代弁者となっている。中国共産党はすべての資材を動員して法輪功を妖魔化し、法輪功に少しも平等な討論の機会を与えない。法輪功がでっち上げの罪名を否定し、人心の支持を得るのはきわめて困難である。

第三に、権力を握っている側が基本的な法治の精神を備えている。第二次世界大戦直後のイギリスの民主はまだ完全ではなかったかもしれない、また60年代のアメリカの人権も完璧ではなかったが、これらの国は文明的な社会法治の精神を備えていた。裁判は公に行うことができ、弁護士は弁護を行うことができ、メディアは報道することができた。たとえば、ガンジーが投獄された時でも、彼は依然として本を読んで文章を書くことができ、彼の思想を広めることができたのである。法治国家の公判は被告に英雄的な気概を示す舞台を提供することができ、もう一方の依拠した悪法は道義的優位を喪失し、大衆の世論の中で敗者となったのである。

一方、自由を失った法輪功学習者は、いわゆる「国家の機密」を口実にした秘密の裁判にかけられ、裁判なしで労働教養所あるいは精神病院に入れられ、それから隔離、拷問、洗脳、殺戮が続くのである。彼らの不屈な行為は公のルートで人びとの目に触れることがなく、人びとが勇気つけられてあやかろうとする願望もない。

第四に、国際社会は南アフリカに対して経済制裁を実行して、マンデラの反アパルトヘイト運動に協力した。しかし、中国は世界の工場とマーケットになっており、多くの国は利益への誘惑から、中共に媚びへつらって、虐殺者と談笑しているのである。

第五に、非暴力抗争は成熟した社会を必要とし、すべての人は自分の権利、義務をよく理解し、そして奉仕の精神を備えている。信仰はここで重要な役割を演じることになる。中国共産党は数十年をかけて全力で人々の信仰体系を粉砕し、暴力などによる弾圧と利益の買収で社会を功利主義のものに変えてしまった。

文章はここまで書いて、読者に目を閉じて少し考えていただきたい。もしあなたが法輪功を苦境から抜け出させたければ、まだどんな方法があるのか?

法輪功が弾圧されてから、一定の期間が経つたびに、法輪功の歩んだ道を振返って考えるが、「偉大」という言葉でもその万分の一も形容できないという感慨をしばしば覚える。時が経てば経つほど、法輪功の平和的抗争の意義はますますはっきり現れてくるだろう。

平和的抗争を堅持する法輪功学習者にとって、信仰は彼らの自信と力の枯渇することのない源だ。社会のメディアが私達を支持しなければ、一軒ずつ宣伝ビラを配り、一人一人に実情を伝えていく。中国共産党はいかなる良心の制約も受けないのであれば、中国共産党の犯罪を暴き出し、民衆と中国共産党の党員に共犯とならないように、中国共産党との決別を勧める。こうした過程の中、法輪功学習者は残酷な迫害を受けるが、彼らは強固な正念と強靱な意志で抵抗し、真相を広めることを堅持した。このような無私で偉大な献身的精神は平和的抗争を持続させる保障である。

2004年11月19日、大紀元時報は『九評共産党』シリーズの社説を発表した。それに誘発された「三退」という中国共産党関連組織からの離脱運動(共産党、共青団、少先隊からの離脱)は、民間の正義の力の凝集と言えよう。現在、「九評を伝え、三退を促進する」運動に参与するのは、法輪功学習者の範囲をはるかに超えている。この正義の凝集は心の凝集であり、無形で潰されない凝集である。それは今、社会の表面に進みつつあり、いったん機が熟したら、脱党は公開化されるだろう。この『九評共産党』が引き起こした「三退」運動は、短期的に見れば、直接中国社会の平和な転移を推進し、中共のない自由な社会に向かわせる。従って、法輪功が解決するのは自身の問題に留まらず、中共に迫害されているすべての団体も中共の解体により、希望ある新天地を迎えることができるのである。

この平和な転移は、社会構造の平和的転移だけでなく、文化構造の平和的転移でもある。しかし、「九評を伝え、三退を促進する」運動の意義はそれだけではない。

この運動を「空前絶後」と言ったのは、歴史上の非暴力運動がかつて法輪功の直面したような苦境に直面したことが無かったからであり、これは「空前」である。「絶後」と言ったのは、人類において中共より邪悪な邪教集団が二度と現れないだろうという意味である。このような犯罪集団に直面しても、人類は依然として平和な方式で迫害を終らせることができれば、未来に一本の道を創始することになる――人類が平和の道を歩み、迫害を終結させる決心を阻止するいかなる苦境も、もう二度とないのである。

この道の影響は、これまでのすべの抗争を超越し、人類、そして更なる広範囲の歴史に輝かしい手本になるだろう。