「1989年6月4日、天安門広場で起きた民主化運動に対する武力鎮圧は、趙紫陽氏の失脚を狙った鄧小平の陰謀だった」こう話したのは趙紫陽・中国共産党中央委員会元総書記の秘書だった鮑彤氏(86)。
同年、党内改革派とされる胡耀邦元党総書記の死去をきっかけに、中国各地で大学生らによる民主化を求める動きが一気に高まった。6月4日、鄧小平らは学生デモを「暴動」と決めつけ、北京の天安門広場に集まった学生や市民らに対して武力で弾圧した。最近解禁されたイギリスの機密情報によると、1万人以上の学生・市民が死亡したという。
4日に29周年を迎える「六四天安門事件」、毛沢東の秘書だった李鋭氏の娘、李南央氏は5月23日、米紙ニューヨークタイムズへの寄稿記事で、鮑氏との対談内容を載せた。
鮑氏は、民主化運動を武力鎮圧した理由について、「共産党政権を守るためだ」という従来の認識を否定した。「鄧小平の保身のためだった」と同氏は主張する。ソ連のスターリンがフルシチョフに批判されたように、自身の死後も趙紫陽に批判されることを恐れていた。この事態を避けたい鄧は学生デモを利用したという。
1987年、最高権力者の鄧小平は、「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を主張する胡耀邦を党の総書記から解任し、さらに同年政治局員に降格させた。胡は亡くなる直前まで、政治改革を呼び掛けていた。
1989年4月15日胡耀邦氏は死去した。同18日、最高指導部である中央政治局常務委員会で、胡耀邦の葬儀について話し合われた。李鵬は趙紫陽に、追悼活動を展開する学生らへの対応について意見を求めた。趙は「われわれも耀邦さんを悼んでいるのに、学生の追悼活動を禁止する理由はない」と述べたという。
この発言をきっかけに、鄧小平が趙紫陽氏を警戒し始めた、と鮑氏は指摘した。鄧小平の手によって解任された胡耀邦氏への追悼を容認すれば、鄧批判につながりかねないからだ。
「趙紫陽の発言を聞いた鄧小平は、趙は中国のフルシチョフだとすぐに警戒した」と鮑氏は語った。フルシチョフはスターリン時代の個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。鄧は死後の名誉の失墜を避けたかったと鮑氏は指摘した。
4月18日の中央政治局常務委員会で、胡耀邦の葬儀について、「全国各政府機関と海外大使館で半旗を掲げ、10万人規模の告別式を行う。告別式の司会者は楊尚昆で、趙紫陽は弔辞を読み上げる。鄧小平も告別式に出席する。弔辞で胡耀邦を高く評価する文言を盛り込む」などと細かく決定された。
同会議では、4月20日に『胡耀邦同志の死去について』との声明文を発表することで一致した。この声明文を通じて、学生らの怒りの沈静化を図る狙いがあった。当時、「鄧小平ら元老によって失脚させられた胡耀邦は憤りのあまり、心臓病発作を起こし亡くなった」との説が流れ、デモを誘発した原因の一つでもあった。
しかし19日になると、10万人規模の告別式の開催と、胡耀邦氏を評価する文言の取り入れは却下された。また、その日の夜、声明文の発表も取りやめられた。
「却下できるのは鄧小平1人しかいない。目的は学生と当局との対立を激化させるためだった」
鮑氏によると、19日、趙紫陽は鄧小平に対して、(局面が混乱している中、)自身の北朝鮮訪問は予定通りに行くのかと質問した。鄧小平は「行ってください。帰国後、あなたを中央軍事委員会主席に任命する」と返事した。すでに趙紫陽に警戒心を抱き、趙を総書記の地位から引きずり下ろそうとする鄧は、趙に察知されないように「わざと軍事委員会主席の任命を口にした」という。
22日の胡耀邦の告別式で、趙は他の常務委員との間で、18日に決定した3つのことを確認した。鄧小平にも報告したが、鄧は反対しなかった。この3つのこととは、まず告別式後に、学生らが学校に戻るよう説得すること。2つ目は、学生が暴徒化しない限り、武力鎮圧をしないこと。3つ目は、「民主化、反腐敗」など学生らの要求に対して、対話を通じて解決していくこと。
趙紫陽氏は翌23日、北朝鮮訪問に行く前、見送りに現れた李鵬氏に対して、前日に常務委員らが決定した3つのことを実行するよう指示した。
しかし、25日、鄧小平は学生らの抗議活動を「暴動」と位置づけ、鎮圧に着手した。
鮑氏によると、4月25日時点では学生の大半は学校に戻ったため、「暴動」は全くなかった。それでも、鄧小平が「暴動」と決めたのは、学生と当局との対立を激化させたうえで、この責任を趙紫陽に押し付け、趙の退任を迫るためだった。
26日、共産党機関紙・人民日報はトップ記事で、学生デモは「一部の下心を持つ人による、中国共産党政権と現行政治制度の転覆を図る陰謀だ」との論説を発表した。「426社説」と呼ばれる文章に、北京の大学生が激怒し、抗議デモが再び広がった。
27日、北京の大学生自治連合会が主催した抗議活動に5~10万人の大学生が参加し、主要大通りから天安門広場に向ってデモ行進を行った。多くの北京市民も支持した。
4月30日、北朝鮮から帰国した趙紫陽氏が目にしたのは、怒りがピークに達した学生らだった。中国最高指導部は、趙紫陽らの融合派と李鵬らの強硬派が対立した。
5月11日、学生らは、人民日報に対して「426社説」の取り下げを求め、ハンガーストライキを始めた。
この中の5月13日、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長が訪中した。ゴルバチョフ氏と趙紫陽氏は16日に会談を行った後、2人は記者団の前に姿を見せた。趙紫陽氏は、「中国にとって、鄧小平氏は依然として重要だ」と述べ、最終決定権は鄧小平氏にあることを示唆した。
5月17日、鄧小平の自宅で開催された中央政治局常務委員会の会議で、他の常務委員は趙紫陽に対して批判を行った。
同会議において、鄧小平は、学生らの抗議を迅速に沈静化しなければ、内戦または2回目の「文化大革命」が起きる可能性があると強い口調で話した。鄧は、北京市内が非常事態に陥り、戒厳令を敷くことを宣言し、軍による武力鎮圧を命令した。これに反対した趙紫陽は、その会議後に辞表を提出した。
鮑氏は、趙紫陽の計画通りに行えば、学生デモは早い段階で沈静化したはずとした。
さらに、鮑氏は「鄧小平は、趙紫陽が北京市内の戒厳令に反対すると分かっていた。だから、5月17日の会議で戒厳令の発動を言い出した。これによって、趙紫陽はやむを得ず辞任したのだ」と述べた。
まさに、29年前の天安門事件は、実質的に鄧小平が趙紫陽の失脚を狙ったクーデターだったと分析できる。
(翻訳編集・張哲)