白系ロシア人とは、「白人」などの人種を指す言葉ではない。
では、彼らの政治的立場を指すのかというと、そうとも言いきれない気がするのだ。むしろ、彼らが歩んだ苦難の旅をふくむ、重い歴史を背負った名称であるように思われる。
ロシア革命後に吹いた「赤化の嵐」
1917年のロシア革命(十月革命)は、レーニンが指導する左派勢力であるボリシェヴィキが中心となって起こされた、政権打倒のクーデターである。
同年3月の二月革命によって帝政ロシアは滅んだが、その後にできた民主派政権を倒したのがこの十月革命であった。これが決定打となってロシア全土が赤化(共産主義化)され、1922年のソビエト社会主義連邦成立へと加速度的に続く。
その過程である1917年から22年において、新旧両軍の間では、激しい戦闘が行われた。
赤軍に対抗した相手は「白軍」であるが、それは必ずしも帝政ロシアの残存部隊に限られたものではない。赤旗を掲げる赤軍側から見て、これに入らないものは全てが「革命の敵」すなわち白軍のカテゴリーに入れられてしまうのだ。
白系ロシア人とは、共産主義革命であるロシア革命に背を向け、そこから逃れるためにやむなく祖国を捨てて、はるか極東の地まで逃げてきた亡命者を指す。
それは彼らの政治的立場というよりも、政治以前の普通の生活をしていた庶民が、襲いかかる赤軍の手に落ちることを恐れて、心ならずも「20世紀の流浪の民」になった人々であるというべきであろう。
はるか遠い安住の地
はるばる数千キロを逃げてきた極東にも、彼らの安住の地はなかった。
一部は、中国東北部に入って、そこで生きる道を選んだ。当時はまだ、中国共産党の政権はできていない。そのほか、北海道の小樽や函館(あるいは当時日本領だった南樺太)に渡った人もいた。一度日本に渡ってから、米国や西欧などへ再移住する白系ロシア人もいた。
こうして、ひとまとめにして書くのは簡単だが、家族をかかえて決死の逃避行をする彼らの苦難を思うと、まさに想像を絶するものがある。難民が置かれた境遇は、いずれの場合も筆舌に尽くし難い。
中国の現政権は、彼らを「少数民族」の一つとしている。当時、中国の白系ロシア人のなかには、長く祖国を離れて世代替わりしたため完全ではないものの、ある程度のロシア語を解する人がいた。
そんな彼らも50年代の中ソ蜜月時代には重宝されたが、文革期にはひどい迫害を受けた。うっかりロシア語を口にすると、スパイ容疑で密告され、労働改造を受けるので気を抜く暇もなかったという。
杉原千畝氏と白系ロシア人の縁
これから30年後の第二次大戦時では、ナチスの迫害を逃れた大量のユダヤ人がシベリア経由で極東へ逃げてくる。
そのとき、リトアニアのカウナス領事館で領事代理をしていた日本の杉原千畝(1900~1986)が、独自の判断で数千人のユダヤ人に「命のビザ」を手書き発行し、彼らの避難を助けたことはよく知られている。
余談だが、杉原千畝氏は、リトアニア赴任以前の満州国勤務時代に、白系ロシア人の女性と結婚している。この女性とは11年後に離婚せざるを得なくなるが、それは杉原氏の過失ではなく、関東軍の作為がからんだ不条理な事情によるものであった。
もともとロシア語が堪能な杉原氏は、モスクワの日本領事館へ赴任することになっていた。
ところが、前妻が白系ロシア人であることを嫌ったソ連側の作為により、杉原氏のモスクワ赴任は果たせなかった。リトアニア領事館へは1939年(昭和14)に赴任する。
関東軍の最大の懸念は「赤軍の侵攻」
さて、白系ロシア人のことに話を戻す。かつて中国東北部に、清朝最後の皇帝をもってきて玉座につかせた満州国という国があった。もちろん、実質的にこの国を動かしていたのは関東軍という日本の軍隊である。
その関東軍の庇護の下に、白系ロシア人によって結成されたファシズムの政党があった。ハルピンを拠点とする彼らは、ロシアファシスト党と呼ばれていた。
彼らの目的は「ソ連の打倒」であった。一方、関東軍の最大の懸念は「満州におけるソ連の赤化工作」および「赤軍の満州侵攻」であったため、それを防ぐ手段としてロシアファシスト党を満州に置いておく価値はあった。両者の利害は、部分的には一致していたと言える。
ただし、周知のように歴史の結末は最も悲惨なものとなった。
大戦の最末期である1945年8月9日、日ソ中立条約(それ自体、スターリンが遵守するはずもない脆弱な約束だったが)を戦車で踏みにじるように、ソ連の大軍が満州へなだれ込んだ。
頼みの無敵関東軍は、本土決戦に備えて先に内地へ引き上げている。結果として、満州に入植した日本人(とくに婦女子)が取り残された。恐るべき生き地獄になったのは言うまでもない。
赤化を恐れる「感覚」は正しかった
赤軍が進駐した中国東北部であったが、領土としては、毛沢東が頑としてソ連に割譲しなかった。とは言え、ソ連に代わり、中国共産党によって草の根まで赤化されたので、悲劇的結果としては同じかもしれない。
ここで押さえておきたいのは、主体がソ連であれ中共であれ、「共産主義による赤化は、民衆を最大限に不幸にする」という絶対的真理である。
それはまさしく、20世紀の歴史が地球上の人口を減らすほど膨大な犠牲をともなって証明した、恐るべき事実なのだ。
ロシア革命後の赤化の嵐を恐れて、はるか極東まで逃亡した白系ロシア人の「感覚」は間違っていなかった。
それと同時に、それぞれの事情によって逃亡できず、郷土に残って、凍土の植物のように忍耐せざるを得なかった大多数の民衆の存在を、私たちは忘れることはできない。
5年で散った「緑ウクライナ」の夢
2022年2月から、ロシアがウクライナに侵攻。21世紀の戦争は、多くの民衆を苦しめて今も続いている。
ちょうど百年前の1922年10月25日。極東に咲いた一輪の花のような国である「緑ウクライナ」が消滅した。極東ウクライナ共和国、というのが正式な国名らしい。
東欧のウクライナから1万キロを隔てた極東に、ウクライナ人によるもう一つの国家建設を夢見たのが「緑ウクライナ」であった。しかし、迫りくる赤軍の圧力を前にしては戦闘にもならず、夢はひとたまりもなく散った。
この国が、沿海州からアムール川の北岸の地に生まれたのが1917年6月であるから、わずか5年でその歴史を閉じたことになる。
ここにいたウクライナ人が、日本をふくむ他国へ逃げて「白系ロシア人」になったケースも多い。例えば、それが日本であれば、ウクライナ語は全く通じないが、片言のロシア語ならば、トルストイを愛読する日本人もいたので通じる可能性がいくらか高かったからである。
百年を越えた今。ウクライナ人をふくむ白系ロシア人の人々が、世界のそれぞれの場所で平穏に暮らしているということを、心からの祈りとして捧げたい。
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