「文革」被害者の手記が明かす40年前の逃亡劇 深紅の大地を離れた若い夫婦の物語
こうして、丘を越え、丘を越え、明るい空の方向に進み、疲れと空腹でへとへとになっていた。 地図の示した海辺に着いたとき、崖であることに気づいて唖然とした! 崖の下は海路でマカオへ続いていた。
ドキドキする心臓を抑えながら、崖の端に偶然、竹の棒を見つけた。 歓迎の潮風が劉さんたちを幸せな気分にさせた。 もちろん、これが冒険の始まりだった。
5月4日、11年間ガンを患っていた、香港に逃れた知青(文化大革命時期都市部から農村部へと移住して働いた青年たち)、劉仙平(本名劉国軒)さんはアメリカ・ニューヨークで亡くなり、77年の壮絶な人生に幕が下ろした。過去の動乱を振り返れば、この「人生の闘士」はまさに時代の流れに翻弄されてきたのであり、彼の人生経験は時代の縮図のようで、過去は煙のように消え去ることはないだろう。
1年前、筆者は肝臓がんを患う劉仙平さんを訪ね、彼の人生について話を聞いた。 このまぶしそうな老人は、10年以上も強い意志でガンと闘い続け、アメリカ東部に香港から逃れてきた人々の記念碑を建てるために、資金と労力を提供してきた。 彼は、香港から逃れてきた人々のために記念碑を建てることは、ひとつの時代の証になると信じていた。 彼は妻の陳華美さんとともに、3度の危険な旅の末に国境を越えて香港に渡った。彼と彼の周りの人々が経験したことを記録する機会を得た。
インタビューの中で、彼は過去を隠さずに語った。
「私はかつて紅衛兵(毛沢東の学生親派)で、当時広州で最大の紅衛兵中学生組織であった広州隊の隊長でした」
文化大革命の最盛期、この学生組織には1万4千人の隊員がいて、民衆の中で最も権力のある人物の一人に見えた男「劉団長」も文化大革命の「英雄」にはなれず、それどころか、逆に囚人となってしまった。
中国共産党による自分や周囲の人々への迫害について、彼は実体験を語った。
「われわれはその波の中から出てきたのだから、実際、知青の亡命は文化大革命の延長だったのだ。当時は読む本もなく、非常に混沌としていた」
歴史を振り返れば、文化大革命で毛沢東に忠誠を誓い、毛沢東を支えた「反乱分子」である紅衛兵も、中国共産党に搾取され、最後には見捨てられ、銃殺され、弾圧された。
劉仙平さんは続けて「われわれは当時、こうしたことが起こるとは思っていなかったが、実際には起こったのだ。だから、天安門事件の銃殺は、法輪功学習者の生きた臓器摘出と同じように、われわれにとって非常に身近なことだ。話せばわかるだろう、金で売れる非常に良質な人間の体だから、必ずそうなる、中国共産党は怪物だ」と述べた。
文化大革命史の手稿、40年間紛失
昨年のインタビューの際、劉さんは厚い原稿の山を取り出し、私に手渡した。「もし私の文化大革命に対する体験を詳しく知りたければ、これらの資料をお読みください」。
『広州文化大革命史稿』(以下、『文革史稿』)は、「子川」というペンネームで書かれた手書きの原稿で、1977年に香港で完成した。彼は当時高校3年生で、広州第21中学の最大の紅衛兵学生組織である東方紅組を一人で立ち上げ、同時に広州中学反乱軍最大の紅衛兵合同組織である広州兵士隊の結成に着手し、その隊長に選ばれた。
この原稿はかつて40年近く箱の底で埃をかぶっていたが、2018年、文化大革命の研究をしている譚加洛(たんからく)さんが劉さんとの取材で見つけ、今日の活字になった。 現在、原本は2度目の照合作業が行われており、文化大革命の歴史の証言としてアメリカの有名大学の研究機関に寄贈する手配が進められていた。
原稿執筆のきっかけについて、劉仙平さんは香港に逃れて最初の仕事、大学の研究センターでの助手の仕事について語った。 当時、ユダヤ人の教授が中国の文化大革命の歴史に興味を持っており、彼が大陸で紅衛兵のリーダーを務めたことを知ると、教授の研究のケーススタディとして自身の経験をまとめるよう依頼した。
「教授は、私が所属していた紅衛兵の組織がどのように発展したかを分析するよう提案し、この資料が教授に渡した原稿だ」
譚加洛氏は今年4月末、記者団とのインタビューにて、2013年に劉仙平さんの原稿を受け取った際、感激し、孤児を預かった重みを感じたと語った。 当時、劉仙平さんは肝臓ガンと診断されたばかりで、腫瘍は拳よりも大きかった。 長生きできないことを案じた劉さんは、人生で貴重な文書のひとつを旧友に託した。 その原稿は、1966年から1968年にかけての文化大革命の舞台、広州高校(および広州市)における権力争いと権力の交代・移譲を生き生きと再現したものだった。
革命幹部の子女に率いられた紅衛兵が「破四旧(4つの旧癖を打ち破る)」(古い思想・文化・風俗・習慣を打ち破り)、破壊行為や強盗を行い、「われこそ反動的な英雄」という血統主義理論を宣伝した。「赤い恐怖」を引き起こした1966年夏、広州の中等学校の生徒たちは、結社の自由が一時的に開放された文化大革命の機会を利用し、紅衛兵に反旗を翻している血統主義や、貴族、富裕層と闘うチームをどのように結成したか、筆者は直接の目撃者の立場から記録して行こう。
「反逆者 」もまた中国共産党に騙されている
毛沢東は、国家、省、さらにはあらゆるレベルの官吏が劉少奇および鄧小平の支配下にあると認識し、自身が既に権力を失ったと判断した際、平民である紅衛兵たちに、あらゆるレベルの権力者に反対するよう働きかけた。文化大革命が開始されて2、3年後、毛沢東が全国各地に「革命委員会」を設置することで自ら権力を取り戻し、文化大革命を終結させようと試みたとき、「反逆派」である紅衛兵たちは、弾圧の対象となり、投獄される事態も生じたと譚加洛氏は分析した。文化大革命活動家の「指導者」の中には、批判され、逮捕され、襲撃を受けた者もいた。
同時に、1968年の秋には、「貧農再教育」、つまり「山や農村に行く」という名目で、中等教育6年間の学生のほとんどが田舎や農場に追いやられ、こうした過去の「英雄」である学生たちを懲罰的に追い払おうとした。
劉仙平さんはこの波の中で投獄され、だまされた味を味わい、また毛沢東や江青が「手を翻せば雲を作り手を覆せば雨となる」ことを知って、投獄され田舎に行くなかで、自分の将来への絶望を感じた。 また、広東省は香港に近く、短波情報や海外のラジオ局を受信しやすいという恵まれた環境にあった。 さらに、友人や親戚の間に情報が流れることで、国境の向こう側の香港の状況も知ることができ、香港への脱出を考え始めた。
劉仙平さんは、「大脱走」の波が押し寄せる中、香港から脱出しようとする「紅衛兵」に騙され、利用された若者がたくさんいたと指摘した。「不良指導者」として苦い経験をした彼は、獄中では同じ独房に誰もいなかったため、1年近く独りで獄中を耐え続け、出所する頃には声が出なくなるのではないかと心配した。もともと、将来への希望に満ち溢れていた野心的な学生たちは、この時期、戸惑いと迷いを感じていた。
二度密航に失敗しても、あきらめずに挑戦
出所後、劉仙平さんは婚約者がいたため、中山の丹州に農民として働きに行こうと申請したが、すぐに彼の「黒歴史」が発覚し、地元のコミューンからの受け入れが拒否され、広州近郊の九窩農場へ行くよう手配した。九窩農場は文化大革命時代には特に過酷な場所で、送られた人々が殺されたこともあった。そのような場所でなければ「彼を抑える」ことができないと、彼らは判断したのだ。
文化大革命の大惨事の後、中国共産党の支持者も反対者も迫害され、批判され、中国共産党が慈悲深いとは一切思えなくなった。たとえ「春」のように見えても、実は抜け穴だらけで、人々を罠に誘い込む網だらけなのだ。 九佛農場で農民として働いていたとき、彼はすでに香港に脱出する決心をしていた。
初めて香港を脱出した1972年、彼は婚約者とともに緑の軍服を着て列車に乗り込み、深センの国境で友人と合流して香港を脱出する計画を立てた。
「列車が東莞(とうかん)を過ぎた後、列車が揺れ、テーブルの上の2つの茶碗が倒れ、床を濡らした。 バスを降りると、約束の友だちの姿はなかった。 誰も迎えに来なかったので、国境警備隊が不審に思って私たちのバッグを調べたところ、私たちが乾燥した食料といくつかの機材を持っていることがわかり、国境を越えて密入国しようとしていると判断して、私たちを逮捕し、2か月間牢屋に入れた」
九佛農場では、劉仙平さんは字が上手で礼儀も正しかったため、周囲の人々とのつながりが深く、農場の農村部の人々によく手紙を書いたり、タバコをあげたりしていた。 このような準備があったからこそ、彼が初めて香港からの脱出に失敗しても、その結果はそれほど深刻なものではなかった。
劉さんは香港からの脱出をあきらめず、今度は婚約者と同行者の盧適衡さんとの「三人乗り」で、丹州からマカオ水域の水路を使って、二度目の脱出を計画していた。 マカオ国境に入ったとき、ここに大きな牡蠣畑があるとは知らず、普通の靴を履いただけだった。
「牡蠣の養殖場を歩くには、簡単に切り裂かれないように、靴底に鋼板を使った特別な装備が必要だったのだ」
劉仙平さんと彼の婚約者は、牡蠣の養殖場に閉じ込められ、一歩も動けなかった。 同行者の盧適衡さんは、何度もカキ場を渡るのに失敗しており、今回成功しなければ逮捕されていただろうが、カキ場を渡ろうと奮闘し、ようやく解放された。 カキ場を渡った経験のない劉さん二人はカキ場に閉じ込められ、後に警察に発見された。 当時、マカオには不法移民を受け入れる政策がなく、捕まれば本国送還となる。 彼らはマカオ警察署に連行されて取り調べを受け、数日間の「外国人刑務所」生活を送った後、本土に送還された。
3度目、「竹の棒」で奇跡
1975年、劉さんは再び香港を脱出することを決意し、この脱出計画には2年を要した。 その間に、彼は陳華美さんと結婚した。ごく簡単な儀式で、家族も一緒に食事をし、二人は夫婦として結ばれた。「準備をしていた当時、国外に出たときに面倒なことにならないように結婚したほうがいい、名前のない彼女だとみんなにはっきりさせられないと考え、先に結婚した」。
初めてこの水路を通った経験を生かし、劉さんと彼のチームは2回目の航海で航路と天候を徹底的に研究した。 「毎日ラジオをつけて漁師のニュースを聞き、満潮と干潮の情報を入手した。 この情報はとても重要で、どの日に海に入るのが便利か、潮の満ち引きを利用してどのように上陸するかを計画するのに役立った。
「私たちはこのニュースを2年間ずっと聞いていた」。 同時に、劉さんとその仲間たちは、医療用ゴムのキャンバスなどを使って、妻と他の友人3人を含む5人が乗れる、爆破可能なゴム製ディンギー(キャビン を持たない小型の船舶)2隻を作った。
今回も彼らは丹州を出発し、ボートを拾ってマカオに行く予定だった。 国境警備隊を避けるため、彼らは山道を迂回して人里離れた海岸に向かった。 劉さんによると、彼らは7日分の乾物を用意していたが、山中で道に迷い、10日以上歩いたという。
「山中を歩いているとき、水場に行って水を汲んだら、飲んだ水が牛のフンのような臭いがしたし、夜中に畑に行ってサツマイモを掻いたら、水が泥のような臭いがしたが、全部食べたから大丈夫だった。 若いときに生き残る能力を持つのはいいことだ」
こうして、丘を越え、さらに丘を越え、明るい空の方向に進み、一行はついに目的地に到着した。 その頃には、疲れと空腹でへとへとになっていた。 地図の示した海辺に着いたとき、崖であることに気づいて唖然とした! 崖の下は海路でマカオへ続いていた。
ドキドキする心臓を抑えながら、崖の端に偶然、竹の棒を見つけた。 歓迎の潮風が劉さんたちを幸せな気分にさせる。 もちろん、これは冒険の始まりだ。
漁業に関する情報をもとに、彼らは海に出る時間を調整した。 海の航海は当初順調に進んだが、まもなく大嵐に遭遇し、ディンギーは横転した。 絶望の淵に立たされたとき、偶然、海の真ん中に竹竿が刺さっているのを見つけた! 2本目の竹竿の出現は本当に奇跡だ! この竹竿の力で、彼らはディンギーを立て直し、近くの島まで支えた。 嵐でディンギーは破れ、壊れてしまい、夜も遅かったので、彼らは島で一夜を過ごし、翌日の出発に備えてディンギーを修理することにした。
マカオの防波堤を見たとき、彼らは嬉しさのあまり接岸したと思い、船を捨てて防波堤に向かった。 しかし、喜びが早すぎたのか、防波堤に着いたとき、マカオに着くまでにはまだ長い道のりがあることに気づいた。 幸いなことに、彼らはまだ修理した船を持っていた。
マカオに向かって旅を再開したとき、突然、海中でモーター音が聞こえ、スピードボートが彼らの横に止まった。劉さんは、「彼らが誰なのかわからなかったが、まさか私たちを捕まえた海洋警察だとは思わなかった。 数分間彼らと話し、マカオへの密入国を商売にしていることがわかったから、私たちを乗せてマカオまで連れてきてくれた」
こうして無事にマカオにたどり着いた劉夫妻は、そこで第二次難民事件からの脱出に成功した盧適衡さんと連絡を取り、大いに助けられた。 その後、二人は香港に渡り、新たな生活をスタートさせ、1977年、当時香港を脱出した紅衛兵が、海外で初めて創刊した雑誌『北斗』を友人とともに創刊し、夫婦で編集・出版チームに加わり、文化大革命時代の自らの体験を発表した。
1978年、難民として渡米し、匿名で起業した劉さんは、文化大革命と香港からの逃亡で味わった恐怖、それが起こした嵐が心の片隅に埋もれている。
今「去りゆく潮」の波は、当時と同じだ
「香港人の香港離れの波」と「香港から脱出する人の波」について劉さんに話を聞くと、今の香港人の気分は、当時の香港人が本土を離れたいと思っていた気分と同じだという。
「この2つのグループの人たちは同じだと思う。彼らも中国共産党を離れたいと思っている。私たちが当時中国共産党を離れたときに考えていたことは、大きな野望を持っていたわけでもなく、民主化運動家のようなものを持っていたわけでもなく、平穏無事に普通の生活を送るようなものだった」
「今、子連れで香港を離れているこの親たちも同じだと思う。 彼らの親も私たちと同じ年代で、当時は香港に残ることを選んだ。そして今、彼らの次の世代に引き継がれ、香港を離れなければならないのだ」
巡りゆく歴史を前にして、劉仙平さんの最後の願いは、できるだけ多くの名簿を集め、「香港から逃亡した知識人の記念碑」に刻み、彼らの実名と物語を代々伝えることで、彼らの世代が歴史に名を残すことだという。
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