元軍病院研修医が実名で暴露…おぞましい中国臓器狩りの実態

2023/08/18 更新: 2024/07/27

今から8年前、中国「臓器狩り」の詳細が1人の元中国軍病院研修医によって暴露された。軍の関与、重々しい雰囲気、暗幕に覆われたワゴン車内での臓器摘出作業、被害者男性の意識がある中での眼球摘出——。この度、衝撃的な体験を語った中国軍医学校の元卒業生——名は鄭治——が、8年越しに実名公開を決意。かつては語られなかった詳細な一部始終および、今回実名を公開するに至った経緯を大紀元に明かした。

初めて鄭氏を取材したのは2015年2月、カナダ・トロントのとあるアパートで行われた。当時、身の危険が及びかねないとして匿名で記事は発表された。それから8年経った今、再び彼に取材する機会を得た。以下は彼に対する取材記録である。

中国河南省、代々中国医学を伝えてきた家に生まれた鄭氏は、医師として活躍する父の背中を見て育った。鄭氏の父はその地域でも名の知られた医者で、地方の役人や軍隊の将校などがひっきりなしに父親の診療所を訪れ、人付き合いも多かったという。

瀋陽陸軍総合病院

当時、軍医学校の生徒として研修期間に入っていた鄭氏は、父親の診療所を手伝いつつ、実習の機会を探していた。すると、父の知り合いの軍の将校が、中国東北地域トップレベルの総合病院、瀋陽陸軍総合病院(現在の北部戦区総合病院)で実習を受けられるよう手配してくれた。

有名な父を持つ鄭氏は自由に診療科を選択できるほど優遇を受け、手術できる機会も多く、順風満帆な医学生として日々を過ごしていた。

ある日、ちょうど心臓外科で研修をしていた頃、深圳に住む富豪がわざわざ飛行機に乗って瀋陽陸軍総合病院に心臓の移植手術を受けにきていた。当時はまだ「臓器狩り」があまり行われていなかった頃で、こちらの富豪も長いこと待ったものの、整合する心臓を見つけることはできなかった。

また別の瀋陽軍区の高級将校が腎臓を探していたが、3年待っても見つけられず、人工透析でなんとか命をつないでいた。当時、臓器移植は難しく、病院ではたくさんの人が順番待ちをしていた。鄭氏はそこで、患者自身に整合する臓器を見つけるのはとても難しいことを知ったという。

生体臓器収奪への関与

閲覧注意:文中には手術や人体の様子など大変ショッキングな描写が含まれています。

鄭氏が泌尿外科で実習を受けていた頃、とある命令をきっかけに彼の人生の歯車が狂い始める。

1994年のことだ。病院に瀋陽軍区からの電話がかかり、数人の医療人員はすぐに車に乗り、秘密の軍事任務を遂行するよう伝える軍事命令だった。医師、看護師あわせて6人が集められ、鄭氏もそのうちの1人だった。

外部との連絡手段を遮断されたままワゴン車に乗り、軍用車両に導かれ、四方を山に囲まれたとある建物の近くまで連れられた。目的地に向かう途中の車内は物々しい雰囲気に包まれ、車の窓は暗幕で完全に覆われており、外を見ることも許されなかった。布の隙間からは、助手席に銃を装備した兵士が乗っているのがみえたという。

その建物の宿泊所に泊まることになった鄭氏は、迎えてくれた軍の将校との夕食の席で、明日臓器を摘出される人は、18歳に満たない青年で、彼の親がお金を払って軍隊に入れてもらったという話が耳に入った。「明日摘出する臓器は健康で新鮮だ」、そんな言葉が将校の口から発せられた。

次の日の早朝、18歳の青年の血液サンプルの採取を終えると、知らない場所へと車で移動した。鄭氏らは身動きを許されず、車の周囲は銃を持った兵士が警備にあたり、重々しい空気が流れていた。

まもなくして、車両後部から1人の男性が複数の兵士に連れられて、2メートルほどの黒いプラスチック袋の上に寝かせられた。男性の両手両足は縄でしっかりと縛られ、喉のあたりからは傷口がわからなくなるほどの鮮血が流れていた。「彼の体温はまだ暖かかった」、そう鄭氏は語った。

取材の途中だったが、鄭氏は極度に怯えた様子で、苦しそうに言葉を絞り出していた。「恐ろしすぎる、恐ろしすぎる…」と。その場は恐怖に包まれ、取材を一時中断し、すこし時間をおいてまた鄭氏は語り始めた。

ワゴン車の医療人員はすみやかに手術服に着替え、鄭氏は助手として、動脈、静脈、尿管の切断を担当した。看護師長がハサミで彼の服を切り、消毒を済ませると、1人の医師が肋骨の下のあたりからへそのあたりまでメスを入れた。大きく切り口が開き、医師が腹腔全体を開けると、血液が吹き出し、腸があふれ出た。

激痛で男性の足は激しく痙れんしたが、のどから声は出なかった。2人の医師が素早く両側の腎臓を取り出し、「早く、動脈、静脈を切断せよ」と指示を受けた鄭氏がハサミを入れた瞬間、血液が噴き出し、体中に血を浴びた。その人はまだ生きていた。

腎臓は用意された保温ボックスに入れられ、今度は向かいの医師が鄭氏に、眼球を摘出するよう指示した。おそるおそる男性の顔に視線を向けた鄭氏は、彼と目があった。「あまりの恐怖で言葉では表現できない。目が合った。私を見ている…まぶたが動いている!」ーー。男性の意識はまだはっきりしていた。

鄭氏の頭は真っ白になり、全身が震え、まったく身動きできない状態になった。そして、前日の夜に耳にした「18歳未満、非常に健康なドナーだ」という言葉を思い出した鄭氏は、「自分にはできない」と医師に告げた。

すると医師は左手で男性の頭を床に強く押し付け、2本の指でまぶたを抓み、右手に持った止血鉗子で眼球をくり抜いた。鄭氏は震えが止まらず、脱力状態になっていた。

すでに動かなくなった男性は黒いビニール袋に入れられ、手術服や手袋は処分のために回収された。ワゴン車で病院に戻った後も、鄭氏は恐怖で体に力が入らなかった。

それまで、何もかもが思い通りで順風満帆だった1人の医学生が、この社会の闇を象徴する一件をきっかけに恐怖に取りつかれるようになり、まもなくして瀋陽陸軍総合病院から離れることを決意した。

しかし悪夢は終わらなかった。その日見た恐ろしい光景、口封じで殺される不安、強いストレスがその後も彼を苦しめ続けた。

「長い間、昼夜を問わず、目の前にあの恐ろしい光景がよみがえった。ワゴン車内の白い手術着、白いゴム手袋、白いマスク。両目しか見えない人たちが黙々とライトの下で、麻酔もせず、生きている人間の臓器を取り出している。彼は私と同じ人間だった。その両目、言葉では表現できない苦しみ、恐怖の視線、恐ろしいほど私を見つめていた」

法輪功学習者に対する臓器狩り

2002年、鄭氏は、父と仲の良い軍幹部のお見舞いで再び瀋陽陸軍総合病院に訪れる機会があった。彼は腎臓の持病持ちで、検査で腎臓の移植手術が必要だと告げられた。すると、廊下で別の軍の将校が彼に、「質がよく、新鮮な、法輪功学習者の臓器を選んであげますよ」と話しかけたのを聞き、鄭氏はそこではじめて、法輪功学習者が「臓器狩り」の対象にされていることを知った。

意見を尋ねられた鄭氏は「それは人殺しです」と伝え、その軍幹部は鄭氏の言葉を聞き入れ、人工透析で3年ほど延命したのちに亡くなった。

当時、一般にはまだあまり「臓器狩り」が行われていることは知られていなかったが、警察や軍隊では多くがその事実を認識していた。軍部の者は金儲けのために、優先的に臓器提供を受けられる窓口を病院に設け、一、二週間、長くても1か月ほどで整合するドナーを見つけられるようになっていた。

人体貯蔵庫

同年、鄭氏は使い捨て便座シートの特許を獲得し、2005年には製造協力や生産設備の設計へとステップを進めていた。2003年にSARSウイルスが中国で猛威をふるい、感染病に対する対策として、病院や鉄道、飛行機、ホテル、などでそのような商品需要が高まっていた。

ちょうどその頃、ある女性が鄭氏を訪れていた。彼女は娘婿が中国共産党の政治局常務委員の側近で、中国共産党の高層とも接触があり、以前鄭氏の父に胃腸炎を治療してもらって以降、ずっと鄭氏一家とは良好な付き合いが続いていた。いつも通り週末に彼女と世間話をしていた時、法輪功の話題になったため、鄭氏は東北地方での法輪功迫害がひどいことを伝えた。

すると彼女は何も言わず、去り際に鄭氏の目を見ながらゆっくりと、「湖・北・省、武・漢・市の、湖北公安庁の裏庭の地下に、法輪功学習者がいっぱいに閉じ込められている。未・成・年・の・子・供・も・い・る」と話した。

彼女の言葉を聞いた鄭氏は、中国を出て、海外にこのことを伝えるという使命感に駆られた。当時、鄭氏が1年かけて取得した使い捨て便座シートの特許に対する、投資の話も決まり、製造には莫大な利益が見込まれていた。ところが鄭氏は、このおぞましい出来事を伝えようと、ビジネスを捨てて出国を決心したという。

「命に比べれば、お金なんて取るに足らない。どれほどお金があろうと意味などない」、そう鄭氏は語った。

便座シートの知的財産登記のための申請書類(鄭氏提供)

タイ、そしてカナダへ

鄭氏はまず家族を連れてタイへと向かった。しかし、中国大使館からの脅迫、タイ警察による人権弁護士に対する弾圧、中共スパイの浸透、親中共のメディアと、タイも決して安全な場所ではなく、2007年に鄭氏はカナダへと移った。

カナダへ移った鄭氏だが、タイでの経験から彼の恐怖心は依然として残っていた。また、当時のカナダメディアもすでに中共の浸透を受けており、自身の体験を暴露できるような報道機関が見つからないまま8年もの間、精神的な苦痛や、たびたびぶり返す恐怖心に苦しめられ続けたという。

「あの間は、孤独感に襲われながら、深い絶望を味わった…選ぶ報道機関を間違えたら、自分が危険にさらされるだけでなく、臓器狩りのことすら公にできなくなってしまう…本当に辛かった」

そして疑心暗鬼の気持ちが残る中で、8年前の2015年、鄭氏はついに大紀元の取材を受け、そこで一部始終を暴露することを決意した。

鄭氏にとっての初めての取材は命懸けだった。「本当に報道してくれるのだろうか、私の身は安全なのだろうか…口にする一言一言が生死の分かれ目のようで、あの気持ちは本当に言葉にできるものではない」と、当時の心境を振り返った。

8年越しの実名公開

8年が経過し、氏名の公開を決断した鄭氏。きっかけは2019年、中国・ハルピンの1人の法輪功学習者が臓器狩りの被害に遭い、その死に際の言葉が明らかになった出来事に深く心を動かされたという。

「私にとってあまりにも大きな出来事だった。これ以上沈黙することなどできない。立ち上がらなければならない。私は臓器狩りの現場を経験したものとして知っている、それがどれほどおぞましく、想像もできないような恐ろしさなのかを」

「中国人を動物のように屠殺し、臓器を奪って金儲けをする。これは完全な犯罪行為だ。なにがあろうと、私は立ち上がり、臓器狩りを暴露する」。また鄭氏は、それが一部の特殊な事例ではなく、相当な規模で軍隊および軍病院の組織全体が臓器狩りに関与していることを非難した。

中国本土にいる法輪功学習者は、刑務所での拷問、精神崩壊の可能性、肉体的苦痛を受けることを知っていながら、それでもなお人々に真相を伝え続けている。鄭氏は、このような強い信念は、世界にいる一人一人を動かすものだと語った。

「中共は犯罪集団だ。私は臓器狩りに関与しているすべての人に対して伝えたい。所持している証拠を残し、中共が断罪を受ける時に、その証拠をもって自身の罪を償うようにと」

伊鈴
劉明湘
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