バベルの塔の物語は、『創世記』11章1〜9節に記されている。大洪水のあと、「全地は一つの言語を持ち、同じ言葉を使っていた」。人々は東の方から移り住み、シンアルの地(メソポタミア)に定住すると、こう言った。
「さあ、我々のために町を築き、頂が天に届く塔を建てよう。そして、我々の名をあげよう。そうすれば、全地の面に散らされることもあるまい」
本文によれば、神は、彼らが一つの言葉を話す一つの民であることに目を留め、こう述べる。
「「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話している。これは彼らのしわざの始まりにすぎない。今や彼らが企てていることで、不可能なことはないだろう」
そこで神は、彼らが互いに理解し合えないように言葉を乱し、「全地の面に」彼らを散らした。そのため、その地はバベルと名づけられた。
先ごろ、筆者はウィーンを訪れ、美術史美術館に足を運んだ。そこでピーテル・ブリューゲル(父)の有名な絵画『バベルの塔』(1563年)を眺めているうちに、ふと思った。私たちが繰り広げている人工知能(AI)の開発競争は、あの悪名高い塔を築いた古代の営みと、どこか重なっているのではないか、と。
教訓
この物語に込められた道徳的な意味については、これまでさまざまな読み方がなされてきた。
高慢と自己賛美
建設する者たちは、神の名を崇めるのではなく、「自らの名をあげる」ことを望んでいる。天に届く塔は、しばしば、神の領域に踏み込み、あるいは神と肩を並べようとする試みとして解釈されてきた。
地に満ちることの拒否
神はノアの子孫に、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と告げていた。一つの場所に定住し、そこに一つの壮大な都市を築こうとすることは、この命令への反抗として読むことができる。
集中した人間の力への制限
本文に記された神自身の言葉は、強い印象を残す。「彼らが企てることで、不可能なことは何もない」。だからこそ、人々を散らすことは、単なる罰ではない。それは一つの歯止めでもある。すなわち、説明責任を負わない単一の人間の営みが、人間に定められた境界を越えてしまうことを防ぐための歯止めである。
この物語は、繰り返し現れる一つのパターンを見抜いている。すなわち、技術の力と組織の力が、神から与えられた目的のためではなく、自らの栄光のために用いられるというパターンである。
チェックリスト
ここで、一つのチェックリストを作ってみよう。現代のある現象が、バベルの物語に見られる特徴をどれだけ備えているかを確かめるためである。項目はこうだ。一つの言語。散らされていないこと。天に届こうとすること。そして、「不可能なことは何もない」という感覚。名をあげようとすること。そして、取り残されることへの恐怖。
ただし、一つ断っておきたい。大規模な人間の営みの大半は、これらの項目の一つや二つには当てはまるものだ。ここで重要なのは、一つひとつの特徴ではなく、それらがどれだけ一つのまとまりとして現れているかである。
では、最先端AIの技術基盤を文明規模のプロジェクトとして眺めてみると、何が見えてくるだろうか。
一つの言語
2026年現在、価値の高い調整や連携は、ますます少数のモデルファミリー、英語に偏った学習データ、そして共通のベンチマーク(ARC-AGI、FrontierMath、「コンピューター操作」など)を通じて行われるようになっている。即時翻訳も広がりつつあり、グーグル、メタ、通信事業者などが音声から音声への翻訳をネットワークに組み込んでいる。
多くの言語は今なお存在している。だが、計画、プログラミング、科学、そしてエージェント同士の協調といった仕事は、ごく少数の共通プロトコルへと集約されつつある。表面上は多言語の世界であっても、その深層では、「一つの言語、同じ言葉」というバベルの世界に近づいているのである。
散らされることへの拒否
ここで問われているのは、エージェント、認証情報、そして行動が、一つの共通基盤(グローバルなレジストリ、国家的な基盤、あるいは一握りの研究所が提供するAPIなど)の下に集約されるのか、それとも、互いに接続しにくい多数の基盤へと分散していくのか、という問題である。
中国政府は、エージェント間の相互接続に関する国家標準を2026年に公表した。その標準は、エージェントの総体的なアーキテクチャだけでなく、アイデンティティ、アイデンティティ管理、エージェントの発見、相互作用、ツール呼び出しなどを対象としている。
国際電気通信連合(ITU)も、人間とエージェントのデジタル・アイデンティティや認証情報の相互運用性、さらに異なるエージェント間の相互運用を可能にする標準化に取り組んでいる。ITUは2026年7月、人間と自律型AIエージェントのための信頼できるデジタル・アイデンティティを検討する新たなFocus Groupを立ち上げた。また、AIエージェント間の相互運用性についても、異なるシステム間でタスクやメッセージをやり取りするための標準化が進められている。
こうした動きの背景には、エージェントやAIシステムが互いに接続できなければ、統合コストが増大し、再利用性が低下し、システム間の相互接続が難しくなるという問題がある。つまり、「分断」は、避けるべき課題の一つとして認識されているのである。
これは、現代の装いをまとったバベルの恐怖とも読める。共通の基盤から外れれば、相互運用性を失い、事業上の不利益を被るというわけだ。
天に届こうとすること
かつて当然のように受け入れられていた限界、すなわち死、知性の希少性、そしてシステムの外部にいる裁定者の必要性は、いまや工学的な問題として扱われようとしている。
「彼らが企てることで、不可能なことは何もなくなるだろう」。
これはもはや、批判者だけが口にする言葉ではない。今年、研究所や経営幹部たちの発言では、汎用人工知能(AGI)や超人工知能(ASI)が、火や電気の発見にも匹敵するもの、「新たな時代」をもたらすもの、さらには汎用的なテストを飽和させるものとして語られている。なかには、自社のシステムをすでにためらいなくAGIと呼ぶ経営幹部もいる。
もちろん、AGIの定義はいまだ曖昧で、議論も続いている。だが、そうした自己描写そのものが、現在のAI開発をめぐる自己認識の一端を物語っている。
名をあげること、そして取り残されることへの恐怖。
企業も国家も、栄光と力をめぐって競い合っている。そして、その競争を正当化する主張の一つが、この軌道から外れれば、別の研究所、別の国、別の技術基盤に後れを取ってしまう、というものだ。
野心と、取り残されることへの恐怖。その二つが、互いに結びついているのである。
どうやら、私たちは何かをつかみかけているようだ。
結論
もし以上の分析と比較に、いくらかでも意味があるとすれば、それは、聖書の物語の後半、神が建設を止め、人々を散らし、言葉を乱したという部分の含意を、改めて考えさせる点にある。
それを実際の神による介入として受け取るにせよ、あるいは、たとえばエントロピーのような自然法則の比喩として捉えるにせよ、この物語が示唆しているように思われるのは、そうした虚栄に満ちた巨大な営みは、いずれ破綻する運命にあるか、そうでなければ、当初喧伝されたほどのものではない、ということである。
古い中国の言葉に、「物極まれば必ず反る(物極必反)」というものがある。物事は極みに達すると、必ず反対の方向へ転じる、という意味である。
興味深い時代を生きる私たちは、その行く末を、いずれ目にすることになるだろう。

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