中国 命からがら生き延びた 私がみた天安門事件」 元学生リーダー李恒青独占インタビュー

「六四天安門事件」35年周年 「歴史の真相を伝え続けてほしい」=元学生リーダー李恒青

2024/06/04 更新: 2024/06/04

きょう「6月4日」は中国共産党当局にとって最もセンシティブ(敏感)な日といわれる。

1989年6月4日、「六四天安門事件」として、歴史に名が刻まれたその日は、日曜日であった。前日3日夜から4日にかけて、天安門広場を中心とする北京市内では、民主化を求める学生や市民に対して、中国人民解放軍が実弾を発砲、また戦車で人をひき潰すなど、流血の大弾圧が行われた。

35年が経つ今日も、中国当局は天安門事件に関連する話題をネット上で血眼になって監視し、国内外で犠牲者を追悼する活動を阻止しようと躍起になっている。

「六四天安門事件」当時の写真(米国の人権組織が公開)

「歴史の真相」

「六四天安門事件」35年周年を前に、元学生リーダーで事件当時の民主化運動に参加した李恒青(り・こうせい)氏はエポックタイムズの独占取材に応じた。

当時、清華大学の学生運動の総指揮者であった李氏は「命からがら天安門広場から逃げた」自身の経歴とともに、「中国共産党による洗脳に反対し、歴史の真相を伝えてほしい」と訴えた。

李恒青氏(本人より提供)

以下が同氏による事件の振り返りである。

「6月3日の夜、戦車は北京市内に突入し、街中(「長安街」)で公然と殺人を行った。地下鉄はすべて兵員輸送車と化した。あの時、私たちはなぜ「人民大会堂」や「歴史博物館」のなかからあれほど大勢の兵士が突然出てきたのか、わからなかった。(今思えば)、兵士たちはとっくにそこに潜伏していたんだ」

「軍隊は街中で発砲し、戦車はそのまま突入してきた。多くの市民は長安街で死んだ。戦車は学生たちを追いかけ、そのまま彼らの体を押しつぶした。現米サンフランシスコ在住の方正氏がそのことの生き証人だ」

「天安門広場は炎に包まれ、戦車がこちらへ向かって突進してきた」

「戦車を生で見たのはあれが初めてだった。戦車はあまり速く走れないものだと思っていたが、違っていた。当時はすべての交差点に障害物が設置されていた、戦車はそういう障害物を一気に突き飛ばすことができるんだ」「あの時、本当に町全体で大虐殺が行われているように感じた」

「軍隊が突然やってきた時、天安門広場には少なくとも2~3万人の学生がいた、みんな『こここで死ぬ』決心だった」

「六四天安門事件」当時の写真(米国の人権組織が公開)

「軍が発砲をはじめた後、多くの負傷者がでた。あちこちから負傷者は広場に運ばれてきた。しかし当時、負傷者を救助しに広場に来るなとすべての病院は禁じられた。そのため、救急車は一台も来なかった。その結果、大勢の市民はそのまま広場で死に、その遺体は広場の片隅に積み上げられた」

「自分のいた場所には、数人の看護師と医師がいた。救う望みのある者を見極めることが彼らの仕事だった。そこへある学生は胸元に大きな穴を開けられた別の学生を背負ってやってきた。『だめだ、彼は助からない』と判断した医師に対し、その学生は『(負傷した学生を)搬送車に乗せてほしい』と泣きながら跪き医師に懇願していた」

「しかし、あの時、『死ぬのが怖い』と言う人はいなかった。みんなここ(天安門広場)で死のうとしていた。私も体じゅう、血まみれだったが、全て他人の血だった。その時、私もそう思った『このまま、ここで死にたい』」

「しかし、そのあとから冷静になった。『いや、この学生たちをここから連れ出さなければならない、彼らは民主主義の種なのだ』と思い直したのだ」

「六四天安門事件」当時の写真(米国の人権組織が公開)

その後、李氏をはじめとする学生リーダーたちは天安門広場の記念碑の場所で、「ここを撤退するかどうか」に関する投票を行った。投票の結果、多数決で撤退することになった。「清華大学」の旗が掲げられ、学生たちはその旗に導かれるまま撤退を開始した。

多くの学生が広場を去った後も、広場には市民を含む多くの人たちがまだいたため、李氏は広場に再度戻り、「撤退するよう」拡声器を使って叫び、広場にいた学生や市民を外へと引っ張り出した。

「その時、私たちの背後20メートルのところには戦車がいた。初めて見る戦車だった、黒煙を上げてすぐ後ろをついてくる」

「『私たちはもう十分血を流した!  生きて帰ろう!  生きて帰るんだ!  これ以上血を流すな!』と私は当時そう叫んでいた、今でもはっきりと覚えている」

「大部分の人は広場から出た後も、それでも多くの学生や市民は撤退しなかった。そこへ大勢の軍隊が残った人たちに向かって突進し、銃声が鳴り響いた」

「銃声を聞いたとき、私は凍りついた。すると、私は抱え上げられ、運ばれた」

「私は運よく市民の手によって助け出された。私はケガをしていなかった。あの時の兵士たちの突撃は、おそらく市民に当たらないようわざと銃口を逸らしていたと思う」

「あの後、戦車もやってきた。もしあの時、私が市民の手によって広場から助け出されなかったらと思うと、想像を絶する結果になっていたでしょう」

「六四天安門事件」当時の写真(米国の人権組織が公開)

天安門広場を命からがら逃げだした李氏は、当局からの指名手配を逃れるために放浪生活を続けるも、やがては捕まり、1年間投獄された。出所した李さんは外国に渡った。

「六四天安門事件」35周年に際し、李氏は「中国共産党の崩壊までもう長くはない」と信じている。

「いま、中国本土の状況は非常に悪い、あまりに多くの人が中国共産党によって洗脳され、その偽りのプロパガンダを信じてしまっている。だから、エポックタイムズをはじめとする良知あるメディアや正義の者たちが中共の邪悪の歴史と真相を伝え続けていってほしい」と李氏はエポックタイムズの記者に述べた。

李凌
エポックタイムズ記者。主に中国関連報道を担当。大学では経済学を専攻。カウンセラー育成学校で心理カウンセリングも学んだ。中国の真実の姿を伝えます!
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