論評
過去5年間で、我々の文化を公平に観察して見ると、最大の変化は、大手メディアへの信頼が失われたことだ。ただ単に「報道が間違っている」という問題ではない。私たちは、自分たちが意図的に操作されていることに気づいたのだ。報道は特定の利益に沿うように作られた物語に基づき、大衆の意識を形作るために利用されている。この手法はかつてよりも露骨になっており、多くの人々がそれに気づき始めた。
ノーム・チョムスキー氏とエドワード・S・ハーマン氏による著書『マニュファクチャリング・コンセント―マスコミが民主主義を操る』(Manufacturing Consent)が出版されたのは37年前のことだ。私はその本を読み、内容を評価した。その主張に対して特に反論する点も見つからなかった。しかし、なぜかその考えは私の日常的な思考には深く浸透しなかった。この本の内容は「少し大げさなのでは」と感じ、現実の生活に根付いたものではないように思えた。そのため、私はそれまで通り主流メディアの報道を信頼し、読み続けていた。
1988年に出版された『Manufacturing Consent』は「大衆メディアと政治の関係」を論じた重要な書籍。著者らは、アメリカにおいて大衆メディアが、非常に強力なイデオロギー装置として機能していると指摘している。
この本では、メディアが市場メカニズムや自己検閲を通じて政治宣伝を行い、大衆の「合意」を巧妙に作り出していることが論じられる。そのプロセスでは、脅迫や強制ではなく、自然な形で支配的な価値観を浸透させる手法が用いられている。
実際、私はニューヨーク・タイムズ(NYT)に対してある種の依存関係を築いていた。明らかに偏向があることは認識していたものの、私はそれを「解読する鍵」を発見したかのように考え、新聞の価値を引き出していた。同紙が明確に「リベラル」であることも分かっていたが、それを意見の相違に過ぎないと捉え、特に気に留めていなかった。
全体的に見て、NYTの報道は、市民の視点に立った公平なものだと思っていた。何か悪意ある目的が背後にあるとは考えもしなかったし、たとえ偏りがあったとしても、それを見抜きつつ価値を引き出せるだけの知識や判断力が、自分にはあると信じていた。さらに正直に言うと、NYTを読むことで、自分が憧れる層、いわゆる知識人の仲間入りをしているような気になっていた。今振り返ると、それは少しの単なる「見栄」だったと思うが、そうした自分の心理や動機、今では理解できる。
2016年の「ロシアゲート」が話題になっていた頃、メディアがトランプ前大統領の敵と協力し、新しい政権を混乱に陥れるために大規模な虚偽の物語を作り上げていたにもかかわらず、私はその真意を完全には把握していなかった。それがようやく見えてきたのは、パンデミック報道が始まったときだった。その時初めて、私たちに押し付けられていた情報が、いかに作為的で意味不明なものだったのか、全貌が明らかになったのだ。
2020年2月27日、毎日欠かさず忠実に聴いていたポッドキャストが、病原体の存在を利用して公衆の恐怖を煽っていることに気づいた。それ以前のエイズ危機、2009年の新型インフルエンザA(H1N1)、2003年のMERSなどでは、冷静さを呼びかけていたNYTが、このパンデミックではまったく異なる対応を取っていた。この変化には明確な意図があり、それが誤っていることを確信した。
私はショックと驚きのあまり、ポッドキャストを止めた。彼らは自分たちが何をしているのか、そしてそれがどのような影響を与えるのかを、理解しているのだろうか? もちろん、理解しているはずだ。いったい何を考えているのだろう? 私を囲む社会のここで、一体何が起きているのか? 数週間後、その答えが明らかになった。彼らは、世界中の他のポピュリスト指導者とともに、トランプ氏を失脚させるという特定の政治的目的に基づき、全面的な破壊の代弁者になる道を選んだのだ。
あの日を境に、私の中で何かが大きく変わった。それは今からほぼ5年前のことだが、私はそれ以降、主流メディアを以前のように見ることはできなくなった。この変化は私一人の偏屈な考えではないと思う。企業メディアが支配するニュースの市場シェアは減少しており、多くの人々は目から鱗が落ちたのだ。私たちはもはや簡単には信じなくなった。それは衝撃的なことだが、重要なそして必要な変化でもある。
その日以降、NYTは、振り返ってみると、事前に用意されていたような物語に一層固執し、政府機関の指示に従順な報道を行った。すべての接触が「感染」に置き換えられ、すべての感染が「症例」となり、少なくとも100年以上続いてきた言語の区別が完全に消されてしまった。その後、不正確な方法による過剰な検査が行われ、さらに死因の誤分類が加わり、実際よりもはるかに状況は悪化しているかのように見せかけられた。
これらすべてが、国全体を巻き込むような激しいパニックを引き起こした。パニックの背後には、中央政府から地方自治体に至るまで、複雑に絡み合った政府機関のネットワークが存在し、それをメディアのエリート層が煽り立てて、さらに強化していた。主流メデイアの主張に異議を唱える者は、「誤情報を広めている」と非難し、ソーシャルメディアからバンされた。私たちのように異常を感じ取った人間は、孤立を深め、専門家たちは自分たちの疑念に、賛同していないように感じられた。
この混乱の背景には、選挙手続きの大きな変化があった。投票所に並ぶことは「感染拡大のリスクが高い」とされ、危険視したためだ。郵便投票が不正のリスクを高める手法であることは数十年来知られているにもかかわらず、CDC(疾病予防管理センター)は早い段階で、選挙は郵便投票で行うべきだと発表した。
結果は、計画通りに進んだ。何百万もの票が突然現れたかのように集計され、法廷での異議申し立ては「訴訟資格がない」として却下した。2020年の選挙に関しては、現在でも広範な疑念が残っている。こうした意見を述べることで批判を受けるリスクがあることは承知しているが、公衆の疑念という現実に、向き合う方が重要だと考える。主流メディアは、この一連の流れに全面的に協力していた。おそらくそれは、当時の大統領が彼らに気に入らなかったからだろう。これこそ、まさに許しがたい問題だ。
この物語をさらに続けることもできるが、内容はすでに周知の通りだ。次に来たのはワクチン接種であり、それに伴い、集団の安全を確保するために必要とした接種率についての大げさな主張が続いた。それに加えて、科学的根拠に乏しい規制――マスク、空気清浄、ソーシャルディスタンスなど――による大混乱も発生した。
こうした一連の出来事の後、物語を作り上げた者(メディア)たちの信頼性は大きく損なわれた。それは最初から正当なものではなかったのかもしれない。チョムスキー氏とハーマン氏がかつて指摘した通りだ。しかしながら、一般の人々は、今やその仕組みに気づいている。これがどのように機能しているのかを理解し、次回同じ手口が用いられても簡単には引っかからないだろう。
そして、「次回」というものは必ずある。最近NYTが攻撃しているのは、神韻(Shen Yun)芸術団だ。神韻は舞踊と音楽からなる舞台芸術で、アメリカや世界中で公演を行っている数少ない大規模な芸術団体の一つだ。政府資金や大規模な財団からの支援を受けていないにもかかわらず、収益を上げている。
NYTは、大規模な攻撃記事のシリーズを掲載してきた。私はそのすべてを読んだが、それらはロシアゲートやコロナ報道と同じ特徴を持っている――大げさな主張ばかりで、実質的な内容に乏しいものだ。我々は何が起きているのかを正確に理解している。ちなみに、神韻の長年のスポンサーはエポックタイムズ(大紀元)であり、同紙はNYTの業界競争相手である。
確かに、NYTはさまざまな分野でその信頼性を大きく損なっている。要するに、もしメディアの使命が、政府機関や企業スポンサーの指示通りにニュースを報じることだとすれば、そのメディアは独立性や自由を装うことはできない。すでにこれがNYTの基本的な運営方法だと知られていることから、その仕組みを見抜くのは以前よりも容易になった。
人々はもはや受動的に座して語られることをそのまま受け入れることはない。そして、私たちは市民ジャーナリズムという新しい時代に突入した。これにより、大衆メディアの権力に対するチェックが、常に存在するようになった。このようなことはこれまで一度も見られなかったことであり、もはや元の状態に戻ることはない。
したがって、私たちは2025年を迎えるにあたり、目を大きく見開き、トランプ氏の2期目の政権に何が起こるのかについて大きな期待を抱いている。しかし、これはトランプ氏個人の問題ではない。この国と世界には、真実への願望に根ざした分散型の基盤で真の文化的復興を実現しようとする強い意志が存在している。まさにその時が来たのであり、これが未来に対する私の楽観的な見方の理由だ。
私たちは皆、この世界がどのように機能しているかについて、まるで大学院レベルの課程を修了したかのような体験をしてきた。このプロセスは苦痛を伴うものだったが、その結果、私たちは確実に成長し、より良い自分へと変わった。
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