中国の生体臓器収奪は実在するのか 証言と心理から読み解く現実

2026/06/10 更新: 2026/06/10

「善良さは人の想像力を制限する」――。

近年、しばしば引用される言葉である。多くの視聴者を持つYouTube配信者「老王」も最近、中国共産党による生体臓器収奪問題について、自身の認識の変化を語る中で、この言葉をあらためて取り上げ、その重い意味を強く印象づけた。

彼は率直に振り返る。カナダに移住した当初、自分は法輪功学習者が明らかにしていた生体臓器収奪の実態を信じていなかった。それどころか彼らを罵倒し、「中国人の恥をさらしている」とさえ思っていたという。

しかしその後、親族や医療関係者から複数の証言や情報に触れるうちに、自らがかつて強く否定していたことこそが現実であったと、徐々に認識を改めていった。そして、かつて誤解していた人々に対し、謝罪するようになったという。

この経験が多くの中国語圏の人々の共感を呼んだ理由は、単に衝撃的な告発を含んでいるからではない。むしろ、多くの人が共通してたどる心理的過程を映し出している点にある。「信じない」から「疑う」へ、「疑う」から「衝撃を受ける」へ、そして最終的に「現実を受け入れる」へと至る過程である。

なぜ人は臓器収奪を信じられないのか

理由は決して複雑ではない。大多数の人にとって、生体臓器収奪は人類社会における最も基本的な道徳の一線を踏み越える行為である。腐敗や専制は理解できる。拷問による自白の強要や、政治的迫害も想像の範囲内にある。しかし、生きた人間を組織的に臓器提供者に仕立て、需要に応じて殺害し、それを一つの産業として成立させる――このような行為は、一般の人々の想像を大きく超えている。

通常の社会における臓器移植の流れは明確である。死亡した人から自発的に提供され、臓器が分配され、患者が待機する。一方、生体臓器収奪はこれとは正反対である。患者の需要に応じて供給者を探し、供給者を殺害し、移植を行う。この二つの間には、文明的に大きな断絶が存在する。

このため、法輪功学習者が最初にこの問題を告発した際、多くの人の反応は怒りではなく不信であった。証拠を精査した結果ではなく、「そのようなことが起こるはずがない」という本能的な拒否感によるものである。

この心理は決して珍しいものではない。

第二次世界大戦後、多くのヨーロッパ人はナチスの強制収容所の写真を見ても、それを捏造だと疑った。ソ連の強制労働収容所の実態が明らかになった後も、多くの西側知識人がその事実を受け入れようとしなかった。人間性の認識を超える悪に直面したとき、人々はしばしば、その悪そのものではなく、それを告発する側を疑うのである。

善良さが判断を鈍らせる心理構造

善良さは本来、美徳である。しかし極端な悪に直面したとき、それは逆に判断を誤らせる要因となることがある。

人は通常、自らの道徳基準をもとに他者を判断する。自分がしないことは他人もしないと考え、自分が想像できない悪は他人にも不可能だと思い込む。この思考は通常の社会では問題にならないが、監視や抑制が機能しない極権体制に対しては、重大な誤認を生む可能性がある。

英国の思想家バーク氏は「権力は腐敗し、絶対的権力は絶対的に腐敗する」と述べている。権力に制約がなく、司法が独立せず、メディアが機能せず、被害者が声を上げられない状況では、想像を超える事態が現実に起こり得る。

歴史はこれを繰り返し示してきた。ナチス・ドイツのホロコースト、ソ連の大粛清、カンボジアの虐殺――いずれも発生前には多くの人が「あり得ない」と考えていた。しかし結果として、その「あり得ない」は現実となった。

人々の想像力を制限しているのは知能ではない。人間性に対する過度に楽観的な前提である。

告発者が疑われる理由

「老王」は動画の中で、後に法輪功学習者に会うたびに謝罪するようになったと語っている。この事実は示唆的である。

多くの歴史的事例において、最初に真実を告発した者ほど、最も信じられない存在として扱われてきた。特に中国共産党の統治下では、腐敗を最初に告発した者は悪意があるとされ、災害を伝えた者は混乱を煽っていると非難され、真実を明らかにした者は国家を貶めていると批判される。そして後に事実と確認された問題であっても、初期段階では同様の疑念や嘲笑にさらされることが少なくない。

理由は単純である。真実はしばしば人々の心理的期待に反する。とりわけ不快な真実であればなおさらである。問題の存在を認めることは、自らの世界認識を修正することを意味する。一方で、真実を否定すれば従来の認識を維持できる。その方がはるかに容易である。ゆえに、人類の歴史において、真実はしばしば虚偽よりも受け入れられにくい。

中国共産党による生体臓器収奪問題は、世界に重要な警鐘

多くのネットユーザーの意見には共通点がある。監視なき極権体制は、人々の悪に対する想像を常に上回る、という認識である。

この見方がすべての事例に当てはまるとは限らないが、重要な傾向を示している。権力に制約がなくなれば、制度によって悪を抑制することはできなくなり、最終的には権力者個人の良心に依存するほかなくなる。しかし歴史が示す通り、個人の良心のみに依拠する体制は、いずれ制御不能に陥る。

したがって、生体臓器収奪問題が示す警鐘は、臓器移植という個別の問題にとどまらない。本質は、特定の犯罪ではなく、責任追及が機能しない制度的環境そのものにある。

監視が機能せず、真実が封鎖され、疑問が抑圧されるとき、人々は常に、自らの想像を超える闇の存在に直面する。そして現実によって認識が覆されるたびに、人々は気づくのである。想像力を制限していたのは虚偽ではなく、なお善を前提としていた自分自身であったのだと。

千百度
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