あなたの「地盤」を取り戻すためにできること【地盤が抜かれた後で(7)】(終篇)

2026/08/17 更新: 2026/08/17

1989年、ベルリンの壁が崩壊した。

しかし、その数年前まで、それが本当に起きると予想していた人はほとんどいなかった。

東ドイツに問題がなかったからではない。

東ドイツの経済は1980年代を通じて悪化し続けていた。秘密警察による監視は社会の隅々にまで広がり、体制を維持するためには、ますます強い統制が必要になっていた。

壁が崩れる条件は、すでに揃っていたのである。

しかし、壁を最終的に崩壊へと向かわせたのは、外部からの軍事的圧力でも、経済制裁でもなかった。

ライプツィヒの一つの教会に毎週月曜日に集まり、ろうそくを灯し、やがて街頭へ出ていった人々だった。

ライプツィヒの一つの教会に毎週月曜日に集まり、ろうそくを灯し、やがて街頭へ出ていった人々だった。(Shutterstock)

重要なのは、この行動の出発点が教会だったことである。

政党でもなく、政府でもなく、公的な機関でもなかった。

国家が社会の多くを管理していた時代に、その管理の外側で、人々がなお「何が正しく、何が間違っているのか」を語り、共通の記憶を持ち、互いを信頼することのできる場所が残っていた。

この出来事は、「地盤とは何か」を考えるうえで、とても分かりやすい出発点になる。

 

制度は地盤ではない

制度は地盤ではなく、地盤の上に建てられた家だ。

このシリーズの表題は「地盤が抜かれた後で」だ。
これまでに六篇で描いてきたのは、その地盤が失われていく過程だ——社会の中で文化が少しずつ変化すること、外部から組織的な働きかけを受けること、制度そのものが自らの力を弱めること、そして人々の発言や議論が管理されていくことを通じてである。

しかし、ここで根本的な問いに立ち返る必要がある。最終篇では、それをはっきりさせなければならない。そもそも、社会における「地盤」とは一体何を指すのか。

制度——憲法、法律、選挙制度、司法の独立といった「制度」はもちろん重要だ。
しかし、これらは地盤そのものではなく、地盤の上に建てられた「家」にすぎない。

制度を本当に機能させているのは、法律の条文そのものだけではない。

たとえば、裁判官が賄賂を受け取らないのは、法律で禁じられているからというだけでなく、自身の良心として「受け取るべきではない」と考えているからだ。市民が官僚の嘘に憤るのも、、「嘘をついた官僚に怒るべきだ」という条文があるからではない。「公職者は誠実であるべきだ」という価値観を人々が本当に信じているからにほかならない。

有権者が目先の利益だけでなく社会の将来を見据えて投票することも同様だ。全員ではなくとも、そうした判断を下す人々が一定数存在することこそが、制度を健全に機能させる力となる。

こうした良識や倫理観は、法律の条文だけで生み出せるものではない。

それは、日々の暮らしの中で身についた道徳的な習慣であり、世代を超えて受け継がれてきた文化だ。そして何より、損得勘定を超えて「正しいものは正しい」と信じる、人々の内なる確信にほかならない。

こうした習慣が弱くなっても、制度の形そのものは長いあいだ残ることがある。
選挙は続き、裁判所も開かれ、議会でも議論が行われる。しかし、それらの制度を実際に動かす人々が、自分たちの役割や制度の意味について、本来の趣旨から徐々にかけ離れ、以前とは違った考え方を持つようになっていく。
これが、多くの社会で、制度が形としては存在しているのに、その本来の意味や働きを失っていく前段階に起こる状態である。

 

道徳的習慣はどこに宿るか

道徳的習慣が社会の地盤だとすれば、それはどこに宿るのだろうか。

政府の政策の中に宿るものではない。
政府は法律を作ることはできるが、法律によって人々に「これは本当に正しい」と信じさせることまではできない。できるのは、違反した場合にどのような罰や結果があるのかを決めることだけだ。
人々がルールを守る理由が「罰を受けるのが怖いから」であり、「このルールには守る意味がある」と信じているからではない場合、そのルールが守られるかどうかは、どれほど厳しく取り締まるかに左右される。そして、その取り締まりを行う人々が正しく行動するかどうかも、さらに深いところにある道徳的な習慣に支えられている。

道徳的習慣は家族の中に宿る。
それは言葉で「こうしなさい」と教えるだけではなく、日々の行動を通して示される——親が子どもの前で見知らぬ人をどう扱うか、自分の過ちにどう向き合うか、誰も見ていないときにどのような選択をするか。
子どもが学ぶのは、言葉で教えられた道徳だけではなく、実際に目の前で示された行動である。
苦しい状況でも誠実であり続ける親を見て育った子どもと、面倒を避けるためにいつも嘘をつく親を見て育った子どもでは、何が正しく、何が間違っているのかについて、身につく感覚も違ってくる。

道徳的習慣は家族の中に宿る。それは言葉で「こうしなさい」と教えるだけではなく、日々の行動を通して示される——親が子どもの前で見知らぬ人をどう扱うか、自分の過ちにどう向き合うか、誰も見ていないときにどのような選択をするか。(Shutterstock)

道徳的習慣は地域共同体の中にも宿る。
隣近所に本当のつながりがあり、人々がお互いの人生に関わりを持っているとき、一人の行動はその人だけの問題ではなくなる。
自分の選択は、実際に知っている人々に影響を与える。そして、自分もその人々を知っているからこそ、彼らが自分をどう見るのか、どう受け止めるのかを気にかける。
こうした働きは、人々がお互いをほとんど知らず、ばらばらに暮らしている社会では弱くなってしまう。

それは宗教や文化的な伝統の中にも宿る。
ここで重要なのは、特定の宗教上の考え方ではない。政治を超えて、「何が正しく、何が間違っているのか」を考えるための道徳的な基準である——政府や政治の判断よりも大切だと考えられる価値があり、政治的な圧力を受けたときにも「この政府が何と言おうと、これは間違っている」と言える土台があるということだ。
ライプツィヒのろうそくを持った人々の運動にも、そのような考えを語るための言葉と、人々が集まるための場所が必要だった。
当時の東ドイツでは、その場所の一つが教会だった。

日本においては、地域の氏子共同体、先祖を敬う習慣、そして「恥」という考え方が社会の中で果たしてきた役割などが、伝統的にその一部を担ってきた。
近代化や都市化が進む中で、こうしたものが弱くなったことは、道徳的な習慣を次の世代へ伝えてきた人や場所も減ってきたことを意味している。

体系的に弱体化されてきたのは、まさにこの三つの担い手だ。

前篇で描いたさまざまな侵食には、一つの共通した結果がある。
それは、道徳的習慣を支えてきた三つの主要な担い手を、少しずつ弱体化させることだ。

家族の弱体化は、離婚率の上昇や出生率の低下だけの問題ではない。
より根本的な問題は、道徳や価値観を次の世代へ伝えるという、家族が本来持っていた役割が弱くなることだ。
子どもの道徳や価値観を育てる役割が、家庭から学校、メディア、娯楽へとますます移っていく。そして、そこで伝えられる考え方や価値観が、第三篇で描いたように似た方向へそろっていくとすれば、それは家庭での道徳教育を補うのではなく、家庭が担ってきた役割そのものを置き換えることになる。

一部の地域では、道徳やジェンダーなど意見の分かれやすい問題について、保護者に知らせることなく学校で扱えるようにする制度や法律もある。
これは単なる政策の問題ではない。「子どもの道徳や価値観を育てることに、第一の責任を持つのは誰なのか」という問いへの答えが、「保護者」から「学校や行政などの公的な機関」へと移っていくことを意味する。

地域共同体のつながりが弱くなることも、現代の都市生活に広く見られる特徴だ。
人々は同じマンションに住んでいても隣人を知らず、インターネット上では見知らぬ人々と交流し、多くの時間や感情を画面の中のやりとりに注いでいる。
これは誰かが意図的に作り出したものではなく、現代の生活様式の中で自然に生まれてきたものだ。
しかしその結果として、人々の道徳や責任感を、実際の人間関係の中で支えてきた大切なつながりの一つが失われつつある。

伝統的に道徳を支えてきた仕組みが弱くなることは、西側諸国では数十年にわたって続いてきた。
宗教活動に参加する人は減り続け、地域の組織に所属する人も少なくなり、政治とは別の場所で、人々が共通の価値観や善悪について語ることのできる場もますます減っている。
しかし、こうして生まれた価値観の空白は、そのまま空白ではあり続けない——やがて別の何かが、その場所を埋めることになる。その一つが政治だ。
政治が「何が正しく、何が間違っているのか」や「自分はどのような人間なのか」を決める大きなよりどころになると、政治は本来の役割以上の重さを背負うことになる。そして政治的な意見の違いも、単なる政策や考え方の違いではなく、善と悪の争いのように受け止められ、まるで宗教をめぐる争いのように激しくなっていく。

 

再建は政治の問題ではない

これまで述べてきた問題に直面したとき、多くの人がまず考えるのは政治による解決だ——正しい人を選び、正しい政策を進め、制度を改革することである。

もちろん、これらも必要だ。
しかし、それだけでは地盤そのものを再建することはできない。
地盤の再建は、まず個人と家族の問題であり、次に地域共同体の問題であり、最後に政治の問題である。
この順序を逆にすることはできない。

地盤の再建は、まず個人と家族の問題であり、次に地域共同体の問題であり、最後に政治の問題である。この順序を逆にすることはできない。(Shutterstock)

個人の段階では——誰も見ていないときにも誠実な選択をすること。責任から逃げることができるときにも、必要な責任を引き受けること。そして「正しいことを言っている」という満足だけで終わらず、実際に負担や犠牲が必要になったときに行動すること。
これらは決して壮大なことではなく、日々の習慣である。
習慣は一日一日の積み重ねによって作られるものであり、一度の投票によって変えられるものではない。

家族の段階では——大切な価値観や道徳を、意識して次の世代へ伝えること。そして、何もしないまま、その役割を学校やメディアなど外部に任せきりにしないこと。
「聞いていて気持ちのよい考え」と、「何度問い直しても筋の通った判断」の違いを、子どもが学べるように助けること。
家族の中で、何が正しく、何が間違っているのかを話し合うこと——ただ言葉で教えるだけではなく、大人自身の行動によって示すことだ。困難な場面に直面したとき、「こう選ぶべきだ」と言うだけではなく、自分自身が実際にどのような選択をするのかを見せることである。

地域共同体の段階では——身近にいる具体的な人々や、自分が暮らしている具体的な場所との本当のつながりを取り戻すこと。
それは必ずしも宗教である必要はない。しかし、人々を結びつける何らかの共通のつながりや価値観は必要だ。自分の行動は自分一人だけの問題ではなく、周囲の人々や社会にもつながっている——そう感じられるようなものが必要なのである。

 

振り子と、より深いリスクについて

このシリーズを、「もう救いようがない」という結論で終わらせたいわけではない。
しかし同時に、「そのうち自然に良くなる」といった単純な楽観論で終わらせたいわけでもない。
歴史を見ると、社会には振り子のような動きがある——一つの方向へ進みすぎた後に、その反動として反対方向への揺り戻しが起きることは、多くの社会で実際にあった。
スウェーデンは1992年の危機の後に改革を進めた。東欧でも1989年以降、大きな社会の転換が起きた。

しかし、その振り子が次にどの方向へ向かうのかは、あらかじめ決まっているわけではない。

社会に十分な道徳的基盤が残っている状態で政治的な揺り戻しが起きれば、より自由な社会や、より良い制度を目指す方向へ進む可能性がある。
一方で、道徳的基盤がすでに深く傷ついた状態で政治的な揺り戻しが起きると、権威主義へ向かう危険がある——そのとき人々が強く求めるのは「自由」よりも「秩序」になりやすいからだ。そして、「自分たちなら秩序を取り戻せる」と主張する勢力が現れれば、それが実際にどのような性質を持つのかにかかわらず、多くの人々から支持を集める可能性がある。

ワイマール共和国には、実際に深刻な問題があった。しかし、その問題への「解決策」として人々の前に現れたのがヒトラーだった。

これこそ、本当に警戒しなければならないリスクだ。
重要なのは、「現在の制度が抱える問題がこのまま続くのか」だけではない。「現在の制度が持ちこたえられなくなったとき、その代わりとして、どのような考え方や政治勢力がすでに用意されているのか」という問題である。

中国共産党の体制がどのような性質を持っているのかを明確に理解している社会は、そうした理解を持たない社会よりも、このような問いに直面したとき、何を受け入れ、何を警戒すべきなのかを判断する力を持つことができる。
中国共産党について理解する意味は、ここにもある。それは中国との外交や安全保障を考えるためだけではなく、自由な社会と権威主義的な社会の違いを見分けるためでもある。

道徳的な基盤を持つ社会だからこそ、大きな混乱に直面したときにも、自分たちがどちらへ進むべきなのかを判断することができる。

 

最後に——地盤が抜かれた後で、何ができるか

このシリーズでは七篇を通して、一つのことを明らかにしようとしてきた。
今日、私たちが目にしているさまざまな社会現象は、単なる偶然でもなければ、一つの原因だけによって生まれたものでもない。さまざまな仕組みが長い時間をかけて重なり合った結果だ——社会の内部から生まれたものもあれば、外部から影響を受けたものもある。制度に関係するものもあれば、文化に関係するものもある。

しかし、「何が起きているのか」を明らかにすることだけが、このシリーズの目的ではない。
本当の目的は、読者がもう一歩深い問いを持てるようにすることだ——「誰が悪いのか」だけを考えるのではなく、「この仕組みはどのように働いているのか」「その中で自分はどこにいるのか」「そして、自分には何ができるのか」と考えることである。

地盤を再建するのは、政府だけではない。一度の選挙でもなければ、一篇の記事でもない。
それは、誰も見ていないところでも誠実な選択を続ける、一人ひとりの行動によって、少しずつ再び築かれていく。

その取り組みは華やかなものではない。ニュースになることもない。誰かに称賛されるとも限らない。

しかし、そうした一人ひとりの行動の積み重ねこそが、社会を支える地盤そのものなのである。

 

「地盤が抜かれた後で」シリーズ 完。

AI、宇宙開発、次世代通信などの先端技術トレンドに加え、それらを支える国家戦略や国際政治、資本市場の動き(ガバナンス・地政学リスク)を複合的に分析。
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