2021年、ドイツは最後の原子力発電所を閉鎖する方針を進めた。
その決定の背景には、環境保護の名の下で進められてきたエネルギー政策があった——原子力発電からの撤退、風力・太陽光発電の大規模な拡大、そして石炭火力発電の段階的な廃止である。
その後、ロシアによるウクライナ侵攻が起き、ロシア産天然ガスの供給が大きく減少すると、ドイツは深刻なエネルギー危機に直面した。
工業用の電気料金が急騰し、大量のエネルギーを必要とする産業の一部では、生産拠点を国外へ移す動きも始まった。数十年かけて築いてきたドイツ製造業の競争力にも、大きな負担がかかるようになった。
ドイツは緊急の対応として、停止していた石炭火力発電所の一部を再稼働させた——石炭火力は、発電するときに多くの二酸化炭素を排出する発電方法の一つである。
これは一国の例外的な失敗ではなく、共通して見られる構造的な問題だ。
気候変動対策として進められた政策が裏目に出て、そのしわ寄せが最も経済的弱者に及ぶという事態が起きている。
しかし、この政策の不備を指摘しようとすると、「気候科学を否定しているわけではない」と前置きしなければ発言すら許されない空気が、西側社会の議論には存在する。
この「政策への批判」と「科学の否定」が混同され、まともな検証が封じられてしまう難問こそが、本稿の出発点である。

混同してはならない三つの層
気候問題を公共の場で合理的に分析することが難しいのは、異なる三つの層の問題が繰り返し混同され、一部の人々にとって都合よく働くことがあるからだ。
第一層:近年の観測データ
過去百年余りの気温記録は、地球の平均気温が上昇していることを示している。
この観測それ自体については、記録が存在する範囲では大きな異論はない。
第二層:地質学的な長期の記録
氷床コア、サンゴ礁、地層などから復元された、数十万年から数億年にわたる気候の歴史を見ると、また異なる姿が見えてくる。
地球の気温は長い歴史の中で、人間の産業活動が存在しなかった時代にも、現在をはるかに上回る水準に達したことが複数回あった。
中世温暖期(約900年から1300年)には、気温が今日に匹敵するか、それを超える水準に達した地域もあった。
さらに古い地質時代には、大気中の二酸化炭素濃度が現在よりはるかに高かった時期もあったが、生命は存在しただけでなく繁栄していた。
氷床コアのデータは、気温と二酸化炭素の因果関係を考えるうえで重要な観測を示している。
いくつかの主要な氷期・間氷期の循環では、気温の上昇が二酸化炭素濃度の上昇に先行しており、その逆ではなかった。
この観測は「気候変動の否定」ではなく、人為的な炭素排出と気温変化の間の因果関係について考えるうえでの、重要な科学的疑問である。
第三層:観測から政策への推論
たとえ第一層の観測を完全に受け入れ、第二層における人為的要因について一定の判断を受け入れたとしても、現在の特定の政策が正しいと結論づけるためには、一連の追加的な前提が必要になる。
政策の是非を判断するには、気候モデルの予測精度(過去20年のモデルには過大評価の傾向がある)、再エネ大規模導入の技術・コスト面での実現性、脱炭素をこれほど急速に進める必要があるのか、それともより段階的な方法はないのか、といった別の前提を個別に精査する必要がある。
この三つの層を一つの問題として混同したうえで、そのすべてについて「科学的コンセンサス」が存在するとしてしまうことには問題がある。
第一層について科学的なコンセンサスを持ちながら、第三層について十分に合理的な異なる判断を持つことは可能である。

日本のエネルギー政策という実験
2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は、日本のエネルギー政策を根本から変えた。
事故を受けて、原子力発電の安全性に対する不安や懸念が高まったことは理解できる。
しかし、その後に進められた政策には、ドイツの事例と似た構造的な問題があった。
原発の停止と再生可能エネルギーへの急速な移行は、電力コストの大幅な上昇をもたらした。
日本の産業用電力価格は主要先進国の中でも高い水準となり、製造業の競争力にも具体的な影響を与えた。
その代償は数字の上だけに表れるものではなく、雇用の減少や地域経済の縮小という形で、特定の人々の生活にも具体的にのしかかった。
しかし、政策にかかる費用と、それによって得られる効果が見合っているのかを問うことは、しばしば「安全より経済を優先するのか」という枠組みの中で語られた。
これは、政策が実際にどのような効果をもたらしたのかという問いを、善悪の問題に置き換えることで、議論しにくくする仕組みだ。
ドイツでそれが「気候科学の否定者」という枠組みで働くのと同じように。
「コンセンサス」はいかにして構築されたか
「97%コンセンサス」は、最も頻繁に引用される数字の一つだ。
この数字は学術論文の分析から来ており、97%の気候科学者が、人為的な要因が気候変動を引き起こしていることに同意しているとされる。
しかし、この数字の問題は、そもそも何が問われているのかという点にある。
「人間の活動が気候に影響を与えている」という考えそのものを否定する科学者は多くない。
本当に問うべきなのは、その先だ——人間の影響はどれほど大きいのか。自然要因と比べて、人為的要因はどれほどの割合を占めるのか。現在の気候モデルの予測精度は、政策を決めるために使えるほど十分なものなのか。
こうした、より具体的な問いについては、「97%コンセンサス」という数字から受ける印象よりも、科学者の間にさまざまな議論がある。
ジュディス・カリー(元ジョージア工科大学教授)やリチャード・リンゼン(MIT名誉教授)は、気候科学の分野で長年研究を行ってきた科学者だ。彼らは単純な「否定者」ではなく、予測モデルの精度や、人為的要因がどれほど大きな影響を与えているのかについて、疑問や慎重な見方を示してきた研究者である。
しかし、こうした異なる見解が、一般の人々が触れる議論の中で取り上げられる機会は限られている。

「コンセンサス」が作られていく過程には、前篇で論じた「議論の枠組みを誰が決めるのか」という問題と似た仕組みが見られる——異なる見解を「科学の否定」として扱い、疑問を示す科学者を議論の中心から遠ざけることで、一般の人々が触れる議論の範囲そのものを、あらかじめ狭くしてしまうのである。
気候産業の政治経済学
温暖化の観測を受け入れたとしても、もう一つ別の問いを立てる必要がある——現在の気候政策は、政治経済学の関係の中でどのように機能しているのか。そして、誰がその恩恵を受けているのか。
炭素排出権取引市場は、本来、企業が排出枠を購入・取引し、市場の仕組みを通じて脱炭素化を促すためのものだ。
しかし実際には、複雑な取引の仕組みを扱う金融機関などが利益を得る大きな市場にもなっており、実際に炭素排出を削減する企業や市民が、必ずしも直接その恩恵を受けるとは限らない。
再生可能エネルギーへの補助金は、理論上、エネルギー転換を進めるために必要な政策手段だ。
実際には、政府からの補助金に大きく依存する企業を生み出すこともある。こうした企業には、補助金を維持するために政治へ働きかける強い動機が生まれる一方、それが必ずしも本当の技術革新やコスト削減につながるとは限らない。
「気候緊急事態」という枠組みは、気候変動への対応を理由に、通常よりも迅速で強い政策を進めることを可能にしてきた。
この枠組みの下では、政策そのものが本当に有効であることを十分に示すよりも、まず「危機がそれだけ差し迫っている」と示すことが重視されやすい——そして、その緊急性を強く訴えるのは、多くの場合、その政策を進めようとする側でもある。
この構造は、政策の効果が十分に検証されないまま、さらに新しい政策が生み出される状況につながる可能性がある——政策は「今すぐ行動しなければならない」という道徳的な緊急性の下で進められ、期待した結果が出なければ「対策がまだ足りない」あるいは「外部から妨げられた」と説明され、そして、さらに多くの政策が必要だと主張される。
中国共産党の役割——最も見落とされた矛盾
気候問題をめぐるさまざまな議論の中で、西側の主流の議論にはほとんど登場しない矛盾がある。
中国共産党の実際の排出量と、国際的な気候交渉で示している姿勢との間にある大きな差だ。
中国は現在、世界最大の炭素排出国であり、その排出量は世界全体の約三分の一を占めている。
その一方で、新たな石炭火力発電所の建設も続けている。
国際的な気候交渉で中国が掲げてきた目標は、2030年までに二酸化炭素排出量をピークに到達させることだ。つまり、少なくとも目標の上では、2030年まで排出量が増加する余地が残されている。
同時に、西側が気候変動対策の名の下で進めてきた産業政策は、結果として製造業の中国などへの移転を促す一因にもなった。
ドイツでは高いエネルギーコストが製造業の負担となり、工場が国外へ移転する動きも見られる。そして移転先が、より炭素排出量の多い電力に依存している地域である場合もある。
その場合、世界全体の炭素排出量が必ずしも減るとは限らない。排出する場所が、厳しい環境規制や監視のある国から、そうではない国へ移っただけになる可能性がある。
この矛盾を真剣に考えれば、政策についての見方も大きく変わってくる。
問うべきなのは、「西側はどれだけ炭素排出を削減すべきか」だけではない。「世界最大の排出国が同じ程度の制約を受けていない状況で、西側だけが厳しい政策を進めることに、どれほど実際の削減効果があるのか。そして、そのために産業の競争力をどこまで失うことになるのか」という問題でもある。
この問いが公の議論で十分に取り上げられない理由の一つは、それが個別の政策だけではなく、気候政策をめぐる議論の枠組みそのものに疑問を投げかけるからだ。
そして、その枠組みがあまりに固定されてしまえば、次第に宗教に似た特徴を帯びるようになる——疑問を持つことが許されず、ただ受け入れることだけが求められる。
科学は信仰による保護を必要としない
真の科学は、問いを歓迎する。
問いを持つことは科学的方法の核心だ——仮説が立てられ、検証され、必要に応じて修正され、あるいは覆される。
疑問を持つことさえ許されない科学的主張は、より強い科学なのではなく、すでに科学本来のあり方から離れてしまっている。
「気候問題についての科学的コンセンサスを受け入れること」が、気候政策について議論するための前提となり、政策の効果に疑問を示すことまでが科学そのものの否定と同じように扱われるとき、起きているのは科学が守られることではない。むしろ、政治的な主張が科学の権威によって守られることだ。
この仕組みは、強い道徳的な正しさや緊急性が与えられた、ほかのさまざまな問題にも当てはまる。
今日は気候問題かもしれない。明日は別の問題かもしれない。
重要なのは、この問題そのものではなく、その背後にある仕組みだ。政治的な立場を科学的事実であるかのように扱い、その立場に疑問を示す人を「道徳的に間違った人」として扱うことである。
健全な社会では、二つの問いを区別できなければならない。「これは真実なのか」という問いと、「これを言っている人は善人なのか、悪人なのか」という問いだ。

この二つを混同することは、道徳が進歩することではない。それは、冷静で合理的な議論ができなくなることを意味する。
そして、冷静で合理的な議論ができなくなることは、社会への管理を強め、異なる意見を抑えようとする力にとって、最も便利な結果なのである。
次篇予告
前六篇では、社会が侵食されていくさまざまな仕組みを描いてきた——歴史的根源、心理的構造、文化の広がり、外部からの操作、制度の弱体化、そして言論の管理という側面からである。
これらの要因が連動することで徐々に奪われていくのは、外部の圧力や激変に直面した際に社会が踏みとどまり、自らを立て直す「復元力(レジリエンス)」にほかならない。 最終篇で問うのはこの根本問題だ——社会を支える真の回復力はどこに宿るのか。そして、既存の制度が機能不全に陥る混乱期において、私たちは何を拠り所として進むべき道を見出すべきなのか。
「地盤が抜かれた後で」シリーズ第七篇:「地盤とは何か、いかにして再建するか」、続く。

革命に貧困は必要ない キューバとベネズエラから読み解く急進的変革の真の土壌 【地盤が抜かれた後で(1)】
なぜ善人は悪い答えを選ぶのか ユートピアの約束が持つ構造的吸引力 【地盤が抜かれた後で(2)】
命令なき占領 思想はいかにして指揮系統なしに統一されるか 【地盤が抜かれた後で(3)】
北京は何を見つめているのか 中国批判をためらう社会のつくり方 【地盤が抜かれた後で(4)】
国家を蝕む福祉依存 【地盤が抜かれた後で(5)】
気候変動政策の虚構 科学の名を借りた統制【地盤が抜かれた後で(6)】
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。