【佛家物語】人を外見で判断してはいけない
釈迦牟尼仏の時代に、とても醜い弟子がいました。修行に励んでいましたが、その容姿が見苦しかったため、他の弟子たちからは、常に軽蔑されていました。ある日この醜い弟子は、仏法を聞くために、釈迦牟尼仏のところに行きました。
「十常侍」の専横 張飛 腐敗役人を鞭打ち
張飛が怒りで督郵に鞭打つ話は、『三国志演義』の第二回に出てくる有名な話です。この話は、張飛の正直さと正義感、民衆のために悪を排除する勇気を示すためだけではなく、漢霊帝時期に、「十常侍」と呼ばれる宦官たちが宮廷を掌握して好き勝手に行動し、皇帝を欺き、忠誠心の強い官吏や将軍を陥れたり排除したりする現象を詳しく描写している典型的な場面です。しかし、その目的は、暗い現実を暴くことではなく、後漢がやがて分裂する危機に直面している様子、及び英雄たちが続々と現れることを予感させることにあります。
【佛家物語】釈迦牟尼仏が選んだ悟りを開く場所
唐代の玄奘三蔵(三蔵法師)は自らの著作である『大唐西域記』で、釈迦牟尼仏が選んだ悟りを開く場所についてこのように記しています。
【三国志を解釈する】(7)劉備 誓いを破り、大義を失い、白帝城に死す
劉備と張飛との出会いに続いて、ついに関羽の登場です。張飛の声は雷のごとく、勢いは奔馬のごとくというものでしたが、関羽の相貌は神将のごとく、一身に神威を帯びており、一見しただけで人々に畏敬の念を覚えさせるものでした。関羽は身の丈9尺(後漢の尺度では約208cm)、髭の長さは2尺(同じく約46cm)、熟した棗(ナツメ)の様な紅顔、唇は朱を塗ったよう、切れ長の目、太く逞しい眉を持ち、その風貌は堂々たるもので、威風は凛々たるものでした。
【佛家物語】修行の成就は師父のおかげ
釈迦牟尼佛がいた時代に、目犍連(もくけんれん)と呼ばれる釈迦牟尼佛の弟子がいました。目犍連の身に多くの神通力が現れたため、修行僧の間ではとくに有名でした。しかし、彼は神通力が現れたことを誇りに思わず、修行において現れた様々な神通力を、すべてその師父である釈迦牟尼佛のおかげとしました。
【佛家物語】恐怖心のない釈迦牟尼佛
ある日、釈迦牟尼佛は古代インドのマガダ国へやってきて、救うべき衆生を救うために佛法を伝えました。当時、釈迦牟尼佛は摩鳩羅山に住んでおり、侍者も阿難ではなく、伽波羅でした。
ある晩、時はすでに遅く、小雨が降り、時折稲妻も光る頃、釈迦牟尼佛は依然と野外で当時の「経行」という修行方法で修煉していました。
第3話:教育者と生徒の務めとは【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】
子供を養うにおいて、生きていく上で必要な物資だけを与え、きちんと躾をしなければ、それは親としての過ちです。また同様に、教師が生徒への教育について、厳しくしなければ、それは教師としての怠りです。
【三国志を解釈する】(6)張飛と劉備 剛と柔の組み合わせ
初めて読者の前に姿を現し、劉備と出会った張飛が、『三国志演義』ではこのように描写されています。
【三国志を解釈する】(5)劉備は腐れ儒者ではなかったのか?
前章では、黄巾軍が反乱を起こし、張角軍が幽州(注1)の国境に攻め込んできたので、状況は危機的であったということを紹介しました。総督である劉焉は、全県に義勇兵を徴集する召集令状を発行し、その召集令状が涿県(注2)に届いたということです。そこで、劉備が正式に登場することになり、「桃園結義」の物語が始まりました。
【三国志を解釈する】(4)黄巾の乱 道術を悪用した張角が残したもの
"霊帝の末期、黄巾賊が蜂起すると、各州、各郡はそれぞれの兵を動員し、劉備は部下を率いて鄒靖に赴き、実力で黄巾賊と戦い、安西の尉官を解任させました。これは歴史書『三国志』の中で、劉備が賊を倒して安西府の尉官になったことを記した原文です。これは、黄巾軍の真実は国賊と判断されており、中国の近代史教科書で歪曲された農民の蜂起ではなかったことを示しています。「州・郡の志願兵」こそ歴史書で認識されている義勇兵であり、各州や郡の政府が組織したボランティアで、官軍とともに黄巾賊と戦ったものです。
【佛家物語】釈迦牟尼論「4種類の馬」
ある日、釈迦牟尼佛は王都の竹林に座っていた。
鉢巻を捧げに出かけた弟子たちは、一人一人が堂々として心安らかに修道院に戻ってきた。
佛陀は金剛杵を結び、優しく語りかけました
【佛家物語】生きたまま地獄に落ちた女
唐玄奘はインドで仏法を求めていたとき、祇園精舎という僧院の外に底なしの深い穴が3つあることを発見しました。大雨が降ると、溝や池には水が溜まりますが、深い穴には水が溜まりませんでした。彼は地元の人に聞いてみると、仏陀を傷つけ仏法を破壊した3人の悪人が、生きたまま地獄に落ちたという伝説があることを知りました。
【古典の味わい】貞観政要 10
太宗も、おん自ら祭壇の前で哭し、死者への哀悼を尽くした。
【佛家物語】仏陀への真の供養
釈迦牟尼仏は、涅槃に近づいた頃、マーラ王国のドゥシャナという街にやってきた。 都会の中の沙羅の森にたどり着いた彼は、それ以上進むことができず、2本の木の間にある森で涅槃に入ることを選んだ。
【古典の味わい】貞観政要 9
太宗は医者に「この者を治療せよ」と命じた。
第2話:理想的な教育環境とは【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】
『三字経』は中国で最も有名な儒教の古典の一つであり、宋の時代の偉大な儒教家である王応麟氏が最初に書いたもので、当時は私塾(現在の小学校に相当)の教科書として用いられていました。『三字経』には、儒教の根本から文学、歴史、哲学、天文地理などの内容が凝縮されており、まさに中国伝統文化の縮図のようなものです。
【古典の味わい】貞観政要 8
朕は今日、張公謹の死を聞いて、心の底から悲しんでいる。
【古典の味わい】貞観政要 7
天はまさに、朕を叱責してほしい。人民に何の罪があって、ひどい困窮に遭わねばならないのか。
【掌編小説】岐路で泣く 『蒙求』より
楊朱は、その分岐点に立ったまま、久しく泣いていた。
【三国志を解釈する】(3)桃園の誓いの時代背景 なぜ黄巾の乱は起こったのか
「三国志演義」の著者が「桃園結義」について語るとき、物語の背景を説明しなければなりませんが、この背景の説明は今日の小説とは異なります。それが非常に重要で、黄巾の乱の物語と世界の混沌の盛衰の根本的な原因を明らかにしています。その歴史観は明白であり、この部分を理解していないと、物語の本当の意味を理解することはできません。
【古典の味わい】貞観政要 6
朕は、そのようにはしない。今ある宮女たちを、それぞれ求めるところへ嫁がせてやろう。
【古典の味わい】貞観政要 5
陛下。そもそも帝王たる人物は、内側に神明なる心を持ちますが、外に向けては奥ゆかしく、寡黙で、何も言わないのです。
【三国志を解釈する】(2)三国志が現代に伝えた遺産 「義」とは?
「三国志演義」は「義」をテーマとしています。この長い物語の巻頭は、劉備、関羽、張飛が張飛の屋敷の裏にあった桃園で血の繋がらない義兄弟として誓いを結んだ「桃園結義」(桃園の誓い)です。 では、この「義」とは何でしょうか。
【古典の味わい】貞観政要 4
太宗が、学者の孔頴達に問うた。
【古典の味わい】貞観政要 3
太宗のその言葉を受けて、側近の魏徴が、太宗にこう申し上げた。
【三国志を解釈する】(1)素朴な疑問 「三国志演義」と「三国志」の違いは何か?
諸葛亮、劉備、関羽、張飛、曹操の名を知らないものはいません。これらの英雄が活躍する三国志の何百もの物語のほとんどは『三国志演義』で語られていますが、これらの物語はすべて「三国志」を題材にしています。では「三国志演義」と「三国志」、この2つの作品はどう違うのでしょうか。
【古典の味わい】貞観政要 1
中国に貞観(じょうがん)という年号の時代がありました。
【古典の味わい】貞観政要 2
貞観2年、太宗は左右に侍する臣下に向かい、こう申された。
【芸術秘話】ミケランジェロと「ピエタ」
ミケランジェロの弟子であり同郷であり、そして友人でもあるジョルジョ・ヴァザーリ(1511年-1574年)は、自らの著作『芸術家列伝』の中で、神がこの芸術家に道徳と智慧と才能を授け、そのため、ミケランジェロは生活においても創作においても人々から賞され、崇拝されていると褒め称えました。
第1話:人間の本質とは【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】
『三字経』は中国で最も有名な儒教の古典の一つであり、宋の時代の偉大な儒教家である王応麟氏が最初に書いたもので、当時は私塾(現在の小学校に相当)の教科書として用いられていました。『三字経』には、儒教の根本から文学、歴史、哲学、天文地理などの内容が凝縮されており、まさに中国伝統文化の縮図のようなものです。そのため、古代の人々は「経」書として崇めていました。