9歳の子供占い師
レスリーは私と長年の付き合いがある古い患者ですが、長い間顔を合わせていませんでした。
耳のツボ
漢方医の私は職業上の習慣で、人の耳にいつも注意を払います。時には相手の耳ばかり見てしまい、相手の話を聞き逃してしまいます。
ニッポン子育て発見記 6 日本の「リサイクルと環境保護」
《日本の皆さん、こんにちは。私は中国出身で、今は日本で生活しながら3人の子どもを育てている媽媽(マーマ)です。私は日本が大好きです。そんな私が発見した日本文化のすばらしさを、皆さんにお届けします》
東洋と西洋漢方医療の違い(2)
10数年前、私がアメリカの漢方医学院で漢方の修士課程を習得した時、クラスの生徒30人余りの中で、中国人は2、3人しかいませんでした。卒業した後、免許を取るための試験の時でさえ、中国人はきわめて少数派でした。
ニッポン子育て発見記5 子どもを「自立させる」教育
《日本の皆さん、こんにちは。私は中国出身で、今は日本で生活しながら3人の子どもを育てている媽媽(マーマ)です。私は日本が大好きです。そんな私が発見した日本文化のすばらしさを、皆さんにお届けします》
ニッポン子育て発見記 4 部活に打ち込む娘、成績もアップ
【わたしは媽媽】ニッポン子育て発見記 4 部活に打ち込む娘、成績もアップ
《日本の皆さん、こんにちは。私は中国出身で、今は日本で生活しながら3人の子どもを育てている媽媽(マーマ)です。私は日本が大好きです。そんな私が発見した日本文化のすばらしさを、皆さんにお届けします》
日本に来て何年も経ってみると、日本の教育は「趣味教育」なのかなと思いました。そこで生徒たちは、青空を飛ぶ自由な鳥のように、自分の好きなことをやりながら「学ぶ」のです。
私の子どもたちは小学校で、いわゆる「勉強」の授業のほ
弟子規 (30)
およそわが身をもって実行しないものは、本の上だけで知識を得て応用を知らないものであり、実践的ではなく、将来どのような人になるか皆目見当もつかない。しかし、盲目的に物事をやってしまって、本の上から知識と経験を学ばないものは、頑固に自分勝手を通しているだけであり、かえって本当の道理を理解できないものである。
弟子規 (25)
自分に能力があったら、自分のことだけを考えるのではなく、人を助けることも考える。人に才能があったら、それに嫉妬したり、人の悪口を言ったりしない。お金に困っている人に諂ってとりいったり、貧窮な人に傲慢な態度をとったりしない。古いものや古いつきあいを反故にして、新しいものや新しいつきあいをよろこんではならない。
弟子規 (24)
人と人との間は、お互いに親しく愛し合うものであり、それはあたかも天が一切を覆い、大地が万物一般を受け止めて育んでいるようなものである。品行が高尚な人は、自然と名声が遠くまで及ぶが、人々が彼を尊敬するのは、彼の品行が良いからであって、その外見が良いからではない。才能に優れた人は、名声が高くなりがちであるが、人々が彼を尊重するのは、彼の能力が優れているからであって、口で大言壮語をしているからではない。それゆえ皆が称賛するのである。
弟子規 (23)
知らず知らずのうちに無意識に犯すものは「過ち」であり、知っていて犯すのは「悪」である。過ちを知って改めることができれば、それは消失してゆくが、もし嘘を言って隠し通して過ちを犯し、かつ再三にわたって繰り返すことになれば、罪はいっそう深くなる。
弟子規 (22)
もし人から自分の過ちを批評されると怒り、褒められると喜んでいれば、人を利用しようとする悪い友が接近してくるが、好意から指摘してくれる良い友は離れていく。
弟子規 (21)
真正な君子は、物質的な方面で他人に及ばなくてもかまわず、品德、学問或いは才能、技術の上で他人に及ばないときに自ら刻苦精励する。また、着ている服や口にする飲食が他人より良くなくても憂い傷つくことはない。
弟子規 (20)
周處が三害を除いた故事は多くの人々が聴き知っている。彼は生来から勇気のある人間で、水中の悪竜を退治したり山中の人食い虎を駆除したりしたが、平安な郷里に舞い戻ってみると、村の古老が不安げな顔をしているのを見て、自分自身が最後の害であることを知った。
弟子規 (19)
迦葉佛が世にあった時の話である。ある少年比丘の声は非常に優雅で、佛を賛美する歌に皆が聞き惚れていた。シャー(沙啞)という老比丘がいたが、少年比丘はこの老比丘の声が犬のようだとさげすんでいた。なぜなら彼が羅漢にまで達した聖者であるとは知らなかったからだった。
弟子規 (18)
凡そ話をするときは信用を守ることが肝要であり、嘘や出鱈目を言っていたのでは、どうしていいことがあろうか。多く話し過ぎるより、少なく話す方がよっぽどましであり、実際本当の事を話し、うわべだけのとりつくろいや巧言で人にとりいろうとしてはならない。とげとげしく冷酷な話、幼稚で世俗的な語気も現に改めるべきである。
弟子規 (17)
門に進み入る際には、まず中に誰かいるか聴いてみる。大広間に入る際は、必ず声を揚げて挨拶する。人が誰かと聴いてきたら、必ず自分の名で答える。ただ「私だ」だけだと、よその人は明確に分からない。人の物を使用する際には、必ず先にことわってから借用するようにする。もし同意を求めて得られなかった場合、勝手にもってゆくとそれは盗みになる。人の物を借りたら、すみやかに返すようにする。人が何かを自分に借りたいと申し出てきたら、貸すのを惜しまないようにする。
【物語】塩漬けの魚
陶侃(とうかん)という男性が、地方官として赴任していた時のことです。彼は漁業の管理をする役人でした。ある日、陶侃は人を遣わせ、地元名産の塩漬けの魚を母親の元へ届けさせました。魚が好きな母親が、きっと喜ぶだろうと思ったのです。
弟子規(16)
清代の安徽省に殷さんと柳さんという二人の富豪がいて、互いに親交があった。あるとき柳さんが病気になって危篤になり、まだ幼少であったその一人息子は殷さんに預けられて面倒を看られることとなった。
弟子規(15)
路を歩くときはせかせかとせず、立つ時は姿勢を端正にし、頭を真っ直ぐにして胸を張る。揖の作法をするときは腰を深く屈め、拝する態度は恭しくする。門の敷居を踏まない。身体は斜めに傾斜させない。坐るときは両脚を広げたり、貧乏揺すりをしない。
【物語】母親に尽くした男
宋という時代の頃のお話です。黄庭堅(こう・ていけん)という非常に母親思いの男がいました。彼は位の高い役人でしたが、母親の事になると、大事小事にかかわらず全て自分が面倒をみて、決して使用人に用事を申し付けたりしませんでした。
弟子規(14)
着用する衣服は清潔を重視し、必ずしも煌びやかな華麗なものを身に付ける必要はない。まずは自らの身分を考え、後に家の経済状態と折衷をはかればよい。
日常の飲食では栄養の均衡に気を付け、好き嫌いの偏食をしない。三食は腹八分目とし、暴飲暴食を戒める。年少者は酒を飲んではならない。酔って言語態度が乱れると醜態が百出するからである。
知性も才能もまるでなし 大金持ちになったわけは?
清の時代、ある大金持ちがいました。彼には特に優れた知性も商才もなく、口下手でしたが、お金がどんどん入ってくるので、周りの人たちは不思議に思っていました。また、普段からさほど健康に気をつけている様子もないのに、病気にかかったことがありませんでした。時に災難に見舞われることがあっても、いつもどうにか解決し、難から逃れることが出来ました。
弟子規(13)
魯の哀公が孔子に訊いた。「先生が着用しているものは、儒者(注1)特有の服装ですか?」。
孔子が答えた。「私は幼少の頃より魯國に住んでいて、袖の広い上着を着用しています。後年長じてからは、宋国に住み、宋国人が被っていた黒い帽子を被っています。私が聞いている所では、有徳の君子は学習に励み、その学識を広くするものです。服装は単に俗に入るためのもので、衣冠は適当であればそれでいいのです。私は元より儒者が何か特別な服装をしているとは知りません。」
弟子規(11)
年輩者の前では声を抑えて話すが、低調になりすぎて聴きにくくなってもいけない。
弟子規(12)
朝は早くから起き、夜は多めに学習に時間を費やしてから就寝するようにする。人の老いるのは早いため、時間を惜しまなくてはならない。
弟子規(10)
路上で年輩者に遇ったら、すみやかにその前に進み出て一礼し、何も話がなかったら、その傍らに恭しく立つ。自らが馬上にあって年輩者に遇ったら即刻に馬を下りる。
諸葛孔明――自らの降格を要求【千古英雄伝】
三国時代のお話です。丞相(じょうしょう)の諸葛亮は劉備の遺志を継ぎ、建興6年(西暦228年)に北伐を敢行し、魏の拠点を次々と攻め落としました。しかし、武将の馬謖(ば しょく)が軍令に従わなかったため、諸葛亮が率いる蜀の軍は惨敗しました。陥落させた多くの城が再び魏に取り返され、諸葛亮らは漢中へ退くことになりました。
弟子規(9)
飲食する時、あるいは歩く時も座る時も、年輩(先輩)者が先で、弱年(後輩)者は後になる。年輩者が人を呼んでいるときは、即刻年配者に替って人を呼びに行き、その人が不在の時には自らが手伝う。
恨みに報いるに徳を以ってす
唐の時代、太宗が皇帝だったころのお話です。宦官の魚朝恩(ぎょ ・ちょうおん)は、輝かしい戦績を持つ武将・郭子儀(かく・ しぎ)に嫉妬していました。魚氏は郭氏の悪口を言いふらし、ついには郭氏の先祖の墓を掘り返してしまいました。
【物語】親孝行の子路(しろ)
孔子の弟子の中に、子路(しろ)という弟子がいました。子路の家族は、とても貧乏で、肉と魚が食べられるのは、特別な日だけでした。その他の日は野草を食べ、お腹を満たしていました。貧しい両親を助けるため、子路は百里離れた市場へ行って米を買い、道端の野草を摘んで帰りました。子路は持ち帰った野草を煮て、親のために食事の用意をしました。