今秋の中国共産党大会を前に、最高指導部の人事などを話し合う非公式会議・北戴河会議はすでに終了したもよう。この会議は通常、引退した党の長老も参加し、人事に口を挟むなど影響力を誇示する場である。しかし、この「長老の政治介入」は今年で終焉を迎えたと、仏国営ラジオRFIは21日、報じた。
8月に入ってから、公の場で姿を見せていなかった指導部メンバーの動静が最近、伝えられた。17日に習近平主席が米軍制服組のトップ・ダンフォード統合参謀本部議長と会談。18日、政治局常務委員の一人である張徳江氏は、全人代常務委員会第99回委員長会議に出席、とそれぞれ中国メディアは報じた。これらの報道は、北戴河会議の終了を意味する。
これまで、北戴河会議の前後に、長老らの動きも報じられていたが、今年こういった報道は見られなかった。RFIは記事で、「長老らも会議に参加したかもしれないが、発言の場はなかったようだ」と述べた。
中国軍の軍事学院出版社の辛子陵元社長は大紀元に対して、「今年の北戴河会議に(習政権)反対派の声は全く伝わってこない。江沢民派はすでに影響力がないことを意味する」「会議の結果はほぼ、習近平氏の思う通りにまとめられた」とし、長老らが政治に口出しする余地はないと指摘した。
例年、党大会に近づくと、長老らはいつも活動を活発化させていたが、今年は「姿を消した」。香港紙・東方日報22日の評論は、長老の政治介入はすでに歴史になったと報じた。
長老政治に翻弄された歴代の党総書記
中国の長老政治は、鄧小平時代から始まった。1987年1月、鄧小平ら「8人の長老」は改革派で1986年12月に起きた学生デモを支持した胡耀邦総書記(当時)を解任した。さらに、趙紫陽を後任とする人事を決めた。しかし、1989年6月、天安門広場で繰り広げられた学生デモを支持し、「党を分裂させた」として、趙紫陽はまた長老らによって解任された。
天安門事件のあと、鄧小平の意向で江沢民は総書記に就任したが、左寄りの舵取りが鄧小平の改革開放路線と相反するものだった。1992年1月、すでに88歳の鄧小平は南方の諸都市を視察し、「改革開放に反対する者は誰であろうか失脚する」と江沢民氏を批判した。同年10月、江沢民氏は党の第14回全国代表大会で改革開放路線を堅持すると表明した。
しかし2002年11月、国家主席を引退した江沢民はさらに2年間軍事委主席にとどまった。軍や党の上層部は江沢民派に握られ、10年間に及ぶ「江沢民院政時代」に入った。そのときの国家主席胡錦濤氏はほとんど発言権はなかった。
この長老政治の被害者だった胡錦濤は2012年11月の党18大で「完全引退」を表明し、江沢民ら党高官の政治介入を禁止する内部規定を定めた。
18大で最高指導者となった習近平氏はその後、反腐敗運動を通じて江沢民派の高官を次々と失脚させた。今年6月、江沢民派が推した「次期後継者」である孫政才前重慶市トップを解任し、江沢民派の影響力を完全に排除した。
今年の北戴河会議に胡錦濤氏らが参加したと報じられたが、江沢民氏の姿はなかったという。
(翻訳編集・李沐恩)
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