アフガニスタンとパキスタンの間には、「デュランド・ライン(Durand Line)」と呼ばれる細長い紛争地帯がある。8月、政府軍の抵抗もむなしくカブールが陥落すると、新しく政権を樹立したタリバンは隣国パキスタンとの領土問題を持ち出した。そして、アフガニスタン人は現在の国境を認めていないと発言した。
実は、タリバンの指導者の多くはパキスタンに拠点を構えていた。隣国を制圧してすぐ、「本国」ともめるのは一体どのような考えに基づく行動なのか。アフガニスタンとパキスタン両国の間に存在する一本の境界線について、専門家の見解を交えつつ、その歴史を紐解く。
「それ以来アフガニスタン政府は、この境界線が歴史的な伝統に反しており、法的にも違法であるため抗議を続けてきた」とインド外交官のドグラ氏。「デュランド・ラインはその地に住む家族や人々の土地を恣意的に分割するものだった。これこそパシュトゥーン人が反発する理由だ。パシュトゥーン人はその後も以前と変わらぬ生活を続け、婚姻や貿易を通して部族間のつながりを維持してきた」。
1947年にイギリスがインド亜大陸から撤退した後、この紛争地域はパキスタンのものとなり、現在でも同国がこの地域の大半の土地を保持している。
同年、アフガニスタン人はパキスタンとの国境線の改正を要求したが、拒否された。その結果、アフガニスタンは、国連においてパキスタンの加盟に反対票を投じた唯一の加盟国となったことが、中東研究所(the Middle East Institute)のヴィネイ・カウラ(Vinay Kaura)氏の報告書で明らかにされている。
英国の外務大臣モーティマー・デュランド氏(Mortimer Durand)によってドゥランド・ラインが引かれる以前は、英国とアフガニスタンはしばしば互いの領土に侵入し、深刻な国境紛争を引き起こしていた。こうした緊張関係はパキスタンの独立後も続いた。
1990年代後半、わずかな期間ではあるが、タリバンはアフガニスタンを支配していた。中東研究所のヴィネイ・カウラ氏は、パキスタンはタリバンがデュランド・ラインの問題に関して譲歩し、両国の国境地帯に跨って居住するパシュトゥーン人の民族主義を統制してくれることを期待していたと指摘する。
「実際の結果は正反対だった。タリバンはデュランド・ラインを断固として認めず、パキスタンのパシュトゥーン人に大きな影響を与えることになる、イスラム主義的なパシュトゥーン・ナショナリズムを育んでいった。2001年、米国の軍事行動によってタリバン政権が打倒されたことは、パキスタンの対アフガン政策の性質と次元をも変えた。パキスタンの親タリバン政策は、アフガニスタンの非パシュトゥーン系部族の共感と支持を失うことになった」とカウラ氏は言う。そして9.11事件以降、パキスタンが米国側に立ち、タリバンとの関係を180度転換させた際には、アフガニスタンのパシュトゥーン人の忠誠心を失うことになったとカウラ氏は述べた。
(文・Venus Upadhayaya/翻訳編集・田中広輝)
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