アフガニスタンとパキスタンの間には、「デュランド・ライン(Durand Line)」と呼ばれる細長い紛争地帯がある。8月、政府軍の抵抗もむなしくカブールが陥落すると、新しく政権を樹立したタリバンは隣国パキスタンとの領土問題を持ち出した。そして、アフガニスタン人は現在の国境を認めていないと発言した。
実は、タリバンの指導者の多くはパキスタンに拠点を構えていた。隣国を制圧してすぐ、「本国」ともめるのは一体どのような考えに基づく行動なのか。アフガニスタンとパキスタン両国の間に存在する一本の境界線について、専門家の見解を交えつつ、その歴史を紐解く。
火種は一通の手紙
デュランド・ラインとは、イギリス植民地時代に引かれた長さ約2640キロメートルの境界線のことで、外敵の侵入を防ぐ目的に作られたものとされている。一本の線により、広大なアフガニスタンの国土が切り離され、そこに住む人々に大きな影響を与えることとなる。
さかのぼること18世紀末、イギリスはライバルのフランスやオランダを次々と追い落とし、世界各地で植民地を拡大させていた。豊富な資源と広大な耕地に恵まれたインドは、その重要度を増していった。
歴史に詳しいインドの外交官ラジーブ・ドグラ氏は大紀元のメール取材に対し、現在の国境紛争の火種は1798年に書かれた一通の手紙から来ているとの考えを示した。そして、デュランド・ラインを理解するためには、世界の勢力図に根本的な変化をもたらしたグレートゲームを理解する必要があると述べた。
1798年、アフガニスタンのアミール(王)であるシャー・ザーマンは英領インド総督のリチャード・ウェルズリー氏に宛てた手紙のなかで、北インドへの軍事作戦に言及した。
「シャー・ザーマンは、マラータ軍(インドのマハーラーシュトラに駐在する軍)を追い出すため、北インドに軍事遠征をしたいと考えていた。そのためにイギリスに協力を求めていたのだ。しかし、リチャード・ウェルズリー総督は、この提案を冷静に検討するどころか、野蛮なアフガニスタン人が山から下りてきてインドで騒乱を起こすという悪夢を見るようになった」とドグラ氏。
「モンゴル人、フン族、ムガール人が同じ峠を越えてインドに侵入し、略奪を繰り返していたのだから、ウェルズリー総督には警戒すべき歴史的な理由があったのだ。アフガニスタンのアミールを遠ざけるために、イギリスはイランの支配者ファト・アリ・シャーに接近したが、彼を巻き込んでも問題は解決しなかった。その頃、ナポレオンやロシアのツァーリ(皇帝)は、アフガニスタンを通る陸路を使ってインドに進軍しようとしていた」。
ナポレオンは欧州での敗北のため、ついに計画を断念したが、虎視眈々とインドを狙う帝政ロシアの脅威はイギリスを悩ませていた。
こうして、南下政策を取る帝政ロシアの脅威を追い払うため、「グレートゲーム」が始められた。
「1893年、イギリスの外務大臣モーティマー・デュランドが当時のアフガ二スタンの王を騙して、小さな地図の上に引かれた大まかな境界線に同意する協定に署名させた。その線こそ、のちにデュランド・ラインとして知られるようになるものだった」とドグラ氏はメールに綴った。
ドグラ氏は自身の著書で、「しかし、その一瞬の判断ミスで、彼は4万平方マイルものアフガニスタンの領土を手放してしまった。彼がなぜそのようにしたのかは1世紀以上経った今日でも謎のままだ」と記している。(つづく)
(文・Venus Upadhayaya/翻訳編集・田中広輝)
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