今年初め、『東洋経済』に臓器移植に関する5回の連載記事「臓器移植とニッポン」が掲載された。
「臓器提供が足らない」ことが最大の課題
1月1日から5日まで連載された各記事の表題を挙げると、以下の通りである。
(1/1)「臓器移植」施行25年でもいまだ増えぬ厳しい実態
(1/2)なぜ巨費でも米国へ?「臓器移植」日本で進まぬ訳
(1/3)割り切れる?「脳死→臓器提供」決断した家族の本音
(1/4)夫から親から…生体腎移植を選んだ「家族の決意」
(1/5)iPS細胞を駆使、実用化は近い?再生医療の最前線
初日(1/1)の記事について、その趣旨を記した前文は以下のようになっている。
脳死下での臓器提供を可能にした「臓器移植法」の施行(1997年10月)から四半世紀が経った。だが、臓器の提供数は毎年100件前後にとどまり、2020年、2021年はコロナ禍の影響もあってさらに減っている。日本では110万人が事故や病気で亡くなり、その1%弱に当たる1万人程度が脳死の状態になると推定される。脳死の原因(原疾患)は、くも膜下出血や脳出血、脳梗塞、低酸素脳症、頭部外傷などで、いつ自分に降りかかってきてもおかしくない病気だ。臓器提供がもっと浸透すれば、助かる命も増えるはず。なぜ臓器移植が日本では増えないのか。5日連続特集「臓器移植とニッポン」1日目は、その現状を探った。(引用以上)
この文章のなかに見られる「臓器提供がもっと浸透すれば、助かる命も増えるはず。なぜ臓器移植が日本では増えないのか」は同連載の一貫したテーマであり、意義のある問題提起であると言えるだろう。
言うまでもなく、医療の使命は、病気で苦しむ患者を救うため、実行可能なあらゆる努力を尽くすことである。全ての分野の医療について「助かる命が増える」ならば、必要な法律や社会的条件の整備もふくめて、その努力を惜しむべきではない。
ただし、移植医療となると単純にはいかなくなる。そこには、移植を受ける患者側の必要性だけではなく、「移植する臓器をどこから、どのように入手するか」という、もう一つの必要性が生じてくるからだ。
盲点1:「中国の医療倫理」に疑いをもたないこと
仮に、臓器を提供するドナーが一定数いたとしても、その中から、個別の患者に適合する臓器をコーディネートするのは容易なことではない。
そこで日本では「脳死を人の死とするか」についての長い議論を経た後、脳死下での臓器提供を可能にした「臓器移植法」が1997年10月から施行された。しかし、四半世紀を経た現在でも、日本における臓器提供が非常に少ないという現状は変わっていない。
この現状に対して同記事は、まだ多くの解決すべき問題はあるものの、iPS細胞をつかった再生医療への可能性に期待を示している。
さて、それらのことをふまえて、先の『東洋経済』の連載記事「臓器移植とニッポン」を再度通読してみると、ある重大なことに気づいた。
記事の内容に問題があるというのではない。ここで指摘したいのは、臓器移植という重大なテーマに正面から向き合い、内容も充実している記事でありながら「大事なことが指摘されていない」という意味で、まことに残念な瑕疵(かし)があるということだ。
日本人が、海外に渡って移植手術を受ける「移植ツーリズム」について同記事は米国での事例を挙げ、主な問題として、その費用の巨額さを指摘している。
しかし、日本人が中国へ渡って移植手術を受けることについて、医療としての有効性や安全性だけでなく、ともすれば「凶悪犯罪に知らずして加担する」という危険性を含んでいることが、同記事では全く警告されていないのだ。
日本の医療には、遵守すべき倫理があることを信じるし、また概ね遵守されていると信じる。しかし、中国共産党が統治する中国においては、医療においても「日本と同質かつ同等の倫理観」があることを期待することはできない。
中国人医師の全てを否定するわけではない。しかし、中共の統治下では、官僚から民間まで社会のあらゆる場面で、腐敗や道徳欠如が常態化しているからである。
盲点2:「これは医療ではない」と気づかないこと
つまり中国で臓器移植手術を受けた場合、日本人患者が切実に求めていた医療が、いつの間にか医療ではなくなっており、手術を受ける患者までが「犯罪の加担者」にされる可能性が高いということである。
ある集団のなかから適合する臓器を収奪して、移植用にまわす。その結果、臓器の元の持ち主は死亡するが、巨額の外貨だけは元手を一銭もかけずに得られるという、まさに殺人を前提とする、恐るべき臓器収奪ビジネスが形成されるのである。
語弊を恐れずに言えば、客の注文に応じて生簀(いけす)の魚を調理するように、日本から来た患者に合わせて、驚くような速さで臓器をどこからか「調達」してくるのである。
中国では、最短であれば、なんと1週間で「適合する臓器」が患者の滞在する病院へ届く。
そのとき、おそらく中国側の医療スタッフは、顔の下半分に笑みを浮かべながら「おお、あなたは運が良いですね。さっそく手術を始めましょう」と言うだろう。
その臓器が一体どこから調達されたかについて、患者に思考する余裕は与えない。全身麻酔をかけられたら、あとは向こうのなすがままである。患者は最後まで「これは医療ではない」とは気づかないのだ。
盲点3:中共の人権迫害の真相を知らないこと
「中国の正規の病院で医療を受けているはずが、知らずして犯罪への加担につながる」ということが、日本人の患者も、その家族も、なかなか想像できないのは無理もない。
重い病のために長年苦しみ、ついに臓器移植しかないという最終段階に追い詰められた患者にしてみれば、たとえ中国の病院であろうと、一縷の望みをつなげたいと思うだろう。
海外で移植手術を受ける場合、仮に子供のために米国で心臓移植を希望するならば「待機時間は3年。費用は6千万円かかる」という。それでも、愛する我が子をなんとか移植手術で救いたいと願うのが親である。藁にもすがる思いで、日本の街頭で募金を求める親御さんのお気持ちは察するに余りある。
レシピエント(移植を受ける患者)が大人であっても、その切実さは同じである。腎臓機能が低下して、ついに人工透析もできず「移植手術しか助かる方法がない」という段階まで追い詰められたら、なおさらであろう。
しかし、そんな時に、怪しげなブローカーが近づき「中国で手術しませんか。2週間で適合する臓器が必ず見つかり、費用も3千万で済みますよ」とささやいたら、どうなるか。
確かに、移植手術は受けられるかもしれない。予後の状態が良いか悪いかは全く予測できないが、ともかく中国の病院に行けば、ほぼ確実に移植手術は受けられるのだ。
患者の心情としては、「費用も、米国に行くよりは安い。ここは思い切って、このチャンスに賭けてみるか」と考えたとしても、無理からぬことであろう。
中国の現体制は、中国共産党(中共)の独裁によって全てが行われている。したがって、中共が承認していない事象が、中国国内に存在するはずはない。
中共当局によって、何の罪もなく拘束されている「良心の囚人(それは主に法輪功学習者、ウイグル人、チベット人など)」から臓器を収奪し、莫大な収入になる移植手術に使用するという「臓器強制収奪」が中国国内では今も行われていると考えられる。
これは「ナチスのホロコーストが21世紀の現代に存在する」と言ってよいほど、全く信じ難いことであるが、紛れもない事実であろう。
患者側が、そうした中共中国の人権迫害の真相を知らない場合、あるいは「たぶん罪を犯した死刑囚の臓器だろうから、こちらが深く聞く必要はない」と思考を止めてしまう場合、そこに重大な盲点が生じるのだ。
中共の臓器強制収奪は「オンデマンド殺人」
この「臓器強制収奪」問題について2019年11月7日、自民党の山田宏議員が参議院外交防衛委員会で取り上げ、外務省の認識を質している。
同委員会で山田議員は「中国の病院なら、移植する臓器が早ければ数日で届く。オンデマンドだ。そんなことがありえるか」と述べ、顧客の「需要」に応じて罪もない人を殺し、そこから臓器を奪い取ってくる臓器狩りの非人道性を非難するとともに、外務省をはじめ日本政府がこの問題をしっかり認識することを強く求めた。
言うまでもなく、日本の移植医療の意義と今後の発展は、それを必要とする患者の尊厳とともに、十分保証されなければならない。
しかし、現在の中国においては「医療が、医療ではなくなり、犯罪への加担につながっている」という信じ難いことが起きているのは現在も否定できない。
日本の医療の延長線上に、中国へ渡っての臓器移植がある。このことは、日本の医療関係者も十分に認識してもらいたい。
それは「日本では移植の望みは少ない」という、患者にとって誠に厳しい現実からくるやむを得ない選択ではあるが、中共の国家ぐるみの犯罪を日本が看過しないためにも、上に挙げた「日本側の盲点」を早急に克服しなければならないだろう。
そのために「臓器強制収奪は、決して医療ではなく、犯罪である」という、明白な原点に立ち戻ることが求められている。
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