江戸時代の元禄年間というと、今から300年ほど前のことでしょうか。
のちに豪商となる紀文、つまり紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)がまだ20代の若さで、ほとんど無名の小商人(こあきゅうど)だった頃のことです。
ある年、紀州和歌山ではミカンが大豊作でした。しかし、いかに冬とは言え、保存設備もない時代ですので、とれすぎたミカンはやがて腐ってしまいます。
上方の商人に安値で買いたたかれると見た紀文は、ミカンを満載した「みかん船」を仕立て、大胆にも、冬場は特に荒れる太平洋航路をつかって江戸まで運びます。
江戸でミカンを売って巨万の富を得た紀文でしたが、もちろん紀文自身が船に乗ったわけではなく、熊野灘という日本有数の難所を前に、出船をしぶる船長(ふなおさ)を説得してそうさせたのです。紀伊国屋文左衛門は、そういう話力のある人だったのでしょう。
ただ、紀文という人は(実在はしたようですが)ほとんど伝説のなかに生きる人物であるため、史実としてはほとんど知られていません。
「紀文が、みかん船に乗ってきた」と江戸では言い伝えられ、商人というより冒険的な「英雄」として後世に伝えられます。江戸の俗謡「かっぽれ」でも、踊り手の見せ場で「あれは紀ノ国ミカン船」と唄われています。
大坂(大阪)が商人の町であったのに対して、江戸は職人の町でした。町中には多くの鍛冶屋(かじや)があり、大工の鑿(のみ)や板前の包丁を鍛(う)って生業としていました。
ところで、その鍛冶屋の仕事に欠かせない鞴(ふいご)を祀る「ふいご祭り」に、江戸では、鍛冶屋の屋根から縁起物のミカンをまく風習があったのです。
「ふいご祭り」は旧暦11月8日ですので、今の暦で言うと12月ぐらいでしょうか。
紀州では豊作のため値崩れし、その逆に江戸では「ふいご祭り」の時期にミカンが不足して高騰することを天性の勘で察知した紀文の、商才が冴えた一事でした。
それにしても、江戸の庶民が紀文の成功をねたまず称賛したことは、やはり彼には、海風のように香る爽やかな人柄があったからなのでしょう。
当時の紀州ミカンは、現代のウンシュウ(温州)ミカンよりも小ぶりで、皮が固く、ごつごつした感触だったようです。屋根の上からまくミカンとしては、このほうが好都合だったかもしれません。
ウンシュウミカンは、中国浙江省の温州(おんしゅう)から種子が伝わったという俗説がありますが、実際には日本の薩摩地方が原産地です。
ちなみに、蜜柑(みかん)は中国語でも「ミーカン」と発音しますが、この名前はあまり一般的には用いられないようです。
中国語では、手で皮をむいて食べるミカンが「橘子(ジュィズ)」。ナイフで皮ごと切って食べるオレンジが「橙子(チェンズ)」という言い方が多く使われます。
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