危機の時代において 男らしさは重要

2025/08/24 更新: 2025/08/24

男性性(男らしさ)を本質的なものではなく「有害なもの」としてラベル付けし、軽視したり否定したりする風潮が強まっているこの時代において、ここ数週間のテキサスでの出来事(テキサス州に7月発生した洪水)は、その真実をはっきりと思い出させるものだった。

壊滅的な洪水の後、私はこの地で、現代社会がもはやほとんど称賛しなくなった光景を目にした。それは男性たちが、自分たちに課された役割を果たしている姿だった。

この2週間以上、年齢を問わず多くの男性たち、退役軍人、現役兵士、架線作業員、農業従事者、更生中の人々、キリストを信じる男性たち、高校を卒業したばかりの若者たち、そして70歳近い男性たちが、文句も言わず、目立つことも求めず、迷いなく現場に立ち続けている。チェーンソーを手に藪を刈り、瓦礫を撤去し、ボブキャット(建設機械)やボートを操り、フェンスを建て直し、電力の復旧に協力し、敬意をもって、瓦礫や川岸を歩きながら今なお行方不明となっている約150人の捜索にあたっている。

グアダルーペ川沿いおよそ120マイルの範囲で、日々、男性たちの小グループがそれぞれの被災区域に立ち、作業を続けている。彼らは、より大きな全体の一部として行動している。その全体には近隣住民、退役軍人、職人、ボランティアが含まれている。それぞれのグループが、この巨大な悲劇の一端を自らの責任として引き受けているのだ。

彼らは、川のにおい、そして死のにおいが、風とともに空気に濃く漂う中で、残骸の中を一歩一歩、念入りに進んでいく。これらの男性たちは、涙を流しながら待ち続ける家族に安らぎをもたらそうと、辛抱強く、そして静かに神聖な仕事に取り組んでいる。なぜなら、行方不明となっている150人のひとりひとりには、それぞれに母親、兄弟、配偶者、友人など家族がいるからだ。その誰もが、何が起きたのか、を知る権利がある。

もちろん、最前線には女性たちの姿もある。私は川辺で、バールやチェーンソーを手にしている女性、重機を操りながら、捜索犬と不屈の精神を持つ男性たちと肩を並べて働く女性たちの姿を目にした。しかし、これらの地域にいる女性たちの大多数は、他の欠かせない形で貢献しており、私たちがしている仕事も同じように英雄的なものである。

私たちは、クリニックを立ち上げ、物流を管理し、地域支援のためのアウトリーチ(公的機関や文化施設などによる地域への出張サービス)を企画し、配給拠点を運営し、食事を作り、ボランティアの動きを追跡し、住居リストを作成し、人々の必要としているものを聞いて回り、心が折れた人を抱きしめ、悲しみに暮れる人の手を握っている。

男性性と女性性(女らしさ)が共に力を合わせ、それぞれの役割は異なりながらも、その影響力においてはどちらも同じように欠かせないのである。

私は長い間、自分が男と同じくらい働けることを証明しようとしてきた。出産してたった4日で職場に復帰したこともある。今振り返って、自分に問いかけずにはいられない。私は何を証明しようとしていたのか? 男性に負けないようについていけること? 男性たちのように無理を通せること? 出産でまだ出血している身体で、男性と同じだけ働けることを証明したかったのか? でも、現実的に男性には出産はできない。私の強さは、彼らとは違う。劣っているのではなく、ただ違うだけなのだ。あの瞬間に私が女性性を尊重していたなら、私自身も、私の身体も、もっと大切に扱われていただろう。自分を癒すことを許し、自分がケアされることを受け入れただろう。

私は何年もレストラン業界で、男性に負けないように自分を追い込み、同じくらい重いものを持ち、同じだけ長く働き、同じ肉体的な負担を背負ってきた。しかし、本当のところ、私にできることや私が貢献できる方法は異なるものだった。たとえ私に人々が「男性的」と表現するような、やる気や不屈の精神、強さの特質があったとしても、今ははっきりと理解している。私たちは、女性に男性のように振る舞うことを促し、その代わりに男性には柔らかさを求める社会に生きていることだ。

今、このテキサス・ヒル・カントリーの小さな町で、男性性と女性性が調和し、それぞれが本来の役割を果たしている姿を見られることが、どれほどありがたいかを感じている。互いを支え合い、補い合い、どちらも貶められることなく、共に尊ばれている。

でも、正直に言おう。災害が起きたとき、危険が迫ったとき、過酷で途切れることのない肉体労働が必要なとき、圧倒的に多く現れるのはやはり男性たちだ。彼らはこう言う。「何が必要だ? 俺がやる」と。

私たちはこの国で長年にわたり、男性性を貶めてきた。否定し、嘲笑し、それを危険だ、時代遅れだ、と決めつけてきた。でも、混乱が訪れ、生き残ることが問われるような状況では、私は理論や政治の中にいたいとは思わない。私は、男性たちに囲まれていたい。働く術を知っている男性。守る方法を知っている男性。そこに踏み込むことを選択肢ではなく、責任として引き受ける男性たちに囲まれていたい。

 ここ数週間、カー郡やグアダルーペ川流域で私が目にしてきたのは、男性性は有害ではない、という明白な証だった。それは、必要なものであり、美しく、そして尊ぶべきものである。

 これらの男性たちは、称賛のためにやっているわけではない。彼らは、自分たちの本来の役割である守る者、支援者、問題を解決する者として認められ、励まされ、尊重されるときにこそ、そうした行動を取るのだ。

だが、これは偶然に起きることではない。私たちの文化の中で、こうした役割が果たされる場を意識的につくっていかなければならない。男性たちが、恥じることなく、自信をもってその男らしさに踏み出せるように、私たちは励まさなければならない。メディアや物語、日常の言葉の中で、男性をコントロールしたり、矮小化したりしてはならない。私たちは、男性という存在の役割を讃えるべきだ。そうして初めて、次世代の男の子たちが、自信をもって守る者、支援者として成長していけるようになる。だからこそ、彼らは自分の強さやリーダーシップ、そして勇気が歓迎され、必要とされていることを知って育つのだ。

もし私たちが、明日も強く、有能で、利他的な男性を望むのなら、今日この瞬間から、彼らの存在を貶めることをやめなければならない。私たちは彼らを称え、彼らの貢献を尊重し、子供たちに対して、正しく生きる男性性が家族や地域社会、そして世界にとっての祝福であることを示さなければならない。

 男性がありのままの自分として自由に存在できるとき、世界はより良く、より強く、より安全になるのだ。

 そして、ここで毎日、文句ひとつ言わずに現れている男性たちへ。私たちはあなたたちを見ている。感謝している。敬意を表する。

再生型農業と牧畜に取り組む農場主。食の主権、土壌の再生、そして自給自足やホームステッド(自立型生活)の教育に力を注いでいる。
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