【大紀元日本9月24日】倒れたお年寄りを助けると、却って莫大な賠償金を請求される。教師の日や仲秋節などの祝日に小学生は担任の先生に高額のプレゼントを贈らないと、先生に粗末に扱われてしまう。大学の教授が、大学院への進学許可を条件に女子学生に「身体の奉仕」を求める。お金を事前に払わないと、急患で病院に運ばれた危篤の患者を診察しない。そして至る所で起きる食品安全問題、幹部の腐敗問題などなど。中国では最近、「好人(良い人)がいなくなった」と嘆く声がネット上でしばしば見受けられる。
「好人」が社会に再度現れてほしいとの願いなのか、最近、10年前に中国で報道されたある女性の感動的な話が掲示板に貼られ、ネット上で話題になっている。
鄒暁晶さんは山東省渚城の出身で、1992年に中国の名門・清華大学の機械と電力設備工学部(機電工程系)に入学した。1999年に修士号を取得し、同年、優秀な成績が評価されて、米国フロリダ州立大学の博士課程への進学が決まった。必要な費用を全てまかなえるだけの奨学金が支給されるという好条件だ。ところが、入学許可書を受け取ってから渡米するまでに、予期せぬ出来事から1年かかってしまった。しかも、中国のエリート学生ならだれもが羨むこの留学の機会を危うく失うところであった。
すべては、血の繋がりのない、貴陽市在住の見知らぬ孤児のためだった……。
一通の奇妙な手紙
1995年の冬休みが終わったころ、鄒暁晶さんの手元に一通の通知書が届いた。大学の修士課程に推薦で入学できることになったのだ。
おかげで、試験の準備をする必要もなく、その分アルバイトをして、すこしでも両親の経済的負担を減らすことができる。鄒さんは山東省渚城の農村の生まれで、家の経済状況は厳しく、両親はこどもたちの教育費を工面するのに苦労していた。
そのため、彼女は1992年に清華大学に入学してからずっと、学校の総務課で郵便物の仕分けのアルバイトをしていた。
修士課程への入学許可書が届いてから数日後、彼女は郵便物の仕分けのときに一通の奇妙な手紙を発見した。封筒には鉛筆で下手な字が書かれていた。受取人の住所は「清華大学レストラン」で、名前は「パパへ」。差出人の名前はない。筆跡からして、どうも小学生が書いたようだ。
消印をみると、貴陽市から出されていた。これでは明らかに配達不可能だ。差戻しもできず、郵便局に託すしかない。しかし、彼女は封筒に書かれた下手な字がどうしても気になる。封を開けて、すこしでも配達できる情報を探そうとした。
手紙はタバコの箱のアルミ紙の裏に書かれていた。
「パパ、ぼくは息子の冬子です。パパはもうぼくが要らないの?パパが家を出てから、お姉ちゃんもすぐに出て行った。ぼくは白菜街で物乞いをしており、いつも殴られたりしている。早くぼくを迎えに来てほしい。ぼくはもう生きていけない。先月、レストランで皿洗いをしていると、店長がきれいに洗っていないと文句をつけてきて、ハンマーでぼくの頭をたたいた。いまもまだめまいがする。店長の子供の子守もさせられているんだけど、ある時うっかり居眠りしてしまったら、店長に靴で顔をなぐられた。パパ、ぼくは本当にもう生きていけない。早く迎えに来てください。ぼくが麻のロープを作ったり、手巻きタバコを巻いたりしてあげる」
冬子を尋ね回る旅
この手紙を読んだ鄒さんは胸がギュッと締め付けられた。彼女は手紙を寮に持ち帰り、同級生たちと相談した。皆で手分けして大学の各レストランを聞いて回ったが、貴陽市出身で、冬子という息子を持つ人は見つからなかった。1週間が過ぎたが、手がかりがまったくなかった。貴陽市出身の2人のコックは、市内には白菜街という所はないと断言した。
失望した鄒さんは本屋で貴州省の地図帳を購入して、貴陽市をくまなく調べた。確かに白菜街という名前はない。彼女は同市の電話番号案内センターにも電話をかけて調べてもらったが、そんな地名は存在しないという答えが返ってきた。
1996年4月初め、その年の卒業生の実習期間がやってきた。彼女は修士課程に推薦で入学が決まっているので、実習と論文作成は不要だった。そのため、本来ならこの期間にアルバイトをして、すこしでもお金を稼ぎたいところだったが、彼女は自ら論文の作成を志願して、実習先を辺鄙な貴陽市に選んだ。
貴陽市を選んだ理由は2つ。一つは同市には中国の大型機械・電力設備の企業と科学研究機関が密集している。もう一つは、あの配達不可能な手紙と冬子のことがとても気になっていたからだ。彼女は、白菜街はおそらくとても小さな通りであまり知られていないのだろう、現地に行ってからゆっくり調べればわかるはずだと思った。
貴陽市に着いて、実習先に顔を出すとすぐに、白菜街のことを調べ始めた。生まれてからずっと貴陽市に住んでいるというお年寄りですら、だれもその地名を知らないという。市役所の地名情報室で関連の資料を集めてみたが、貴陽市周辺の地区も含めて、やはり白菜街という所はない。彼女は完全に希望を失った。
ある日、工場の現場で実習していると、偶然、ある従業員がそばの従業員に「度胸があるなら白菜街で威張って来い」と話しているのが聞こえた。鄒さんはピンと来た。「白菜街ってどこにあるんですか」。聞かれた従業員は思わず笑った。「白菜街という地名はないんだけど、貴陽の若者の間では、『城東の若い男はカッコいい。城西の若い男は頭がわるい。城南の若い男は皆に好かれる。城北の若い男は腐った白菜』なんてことが言われていて、通称『白菜街』はつまり城北にあるのさ」
この話を聞いた鄒さんはとても嬉しくなり、すぐに城北に向かった。
現地に着いた彼女は、そこがなぜ白菜街と呼ばれるのかすぐに分かった。地面には汚水が垂れ流しにされ、ゴミが至るところに散乱し、ハエがブンブン飛んでいる。道端の民家は皆ボロ屋ばかりだ。彼女は一軒一軒尋ね回るうちに、事情がすこしずつ分かってきた。
冬子は生まれつき軽度の知的障害を持っており、小学校を中退した。両親はこの子を嫌っており、彼のことでケンカが絶えなかった。3年前に両親は離婚し、双方ともこの子を引き取らなかった。父親は北京に出稼ぎに行った。うわさでは清華大学でレストランを開店した。一度200元(1元約12円)を仕送りしてきたが、それ以来音信不通になった。
去年、冬子の母親もほかの男と夜逃げして姿をくらまし、冬子だけが白菜街に置き去りにされた。最初の頃は、周りの人も彼のことを同情して、食べ物や衣服などを差し入れしていたが、後にこの子に盗み癖があるとわかってからは、隣人たちも彼の面倒をみなくなった。あの謎の手紙は、小学校2年生の子供が冬子のために代筆したものだった。
ある人が鄒さんを一軒のボロ家の前に案内してくれた。その人は家の中に向かって、「冬子、誰かがお父さんに頼まれてお前を迎えに来たよ」と大声で呼んだ。
(続く)
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