【大紀元日本9月25日】
「パパが私を寄越したの」
ニワトリの羽と内臓が山積みにされた庭に、がりがりに痩せた子供が茫然と立っていた。
肩にはニワトリの死骸がいっぱい入った竹籠を担いでいる。自分の名前が呼ばれ、鄒暁晶さんが入ってきたのをみて、彼はびっくりした様子だった。こんなに痩せている姿を見て、彼女は思わず彼の手を取った。「冬子、お父さんに頼まれて来たのよ」
鄒さんは冬子を実習先の宿舎に連れて行き、まず食堂からご飯を買ってきた。そのがつがつ食べる姿を見て、彼女はますます辛くなった。風呂に入れて体を洗い、新しい服を着せた。よく見てみると、五官の整ったさわやかな子ではないか。
それ以来、鄒さんは工場で実習する以外は、すべての時間と精力を冬子に費やした。遊園地、ショッピングセンター、動物園、いろいろなところに連れて行った。まるでこの子が受けてきた今生の不幸を全部償うかのように。
冬子から「いつパパに会えるの」と聞かれる度に、彼女は、「お姉さんの実習が終わってからにしましょう。お父さんは遠いところであなたを待っているの」。この子の嬉しそうな笑顔をみて、鄒さんは自分もとても幸せを感じた。
冬子は見つかったが、この子の将来はどうするのか。彼に安定した生活環境を提供するために、彼女は各政府機関に事情を説明して支援を求めた。
まずは民政局を訪れて、この子の養護を引き受けるようお願いした。しかし断られた。理由は、「冬子は孤児ではなく、両親が健在だ。それに福祉施設の経費が少ないため、入所はとても厳しい」というものだった。
諦められない鄒さんは公安局を訪れ、彼の両親には保護責任者遺棄罪の疑いがあると陳情した。そこである意外な情報を告げられた。半年前に、北京市の公安当局から貴陽市の公安局に、冬子のお父さんの指名手配への協力要請があった。なんと、経営していたレストランが破産し、お父さんは麻薬売買に手を染めたというのだ。
道がすべて閉ざされた。どうすればいいのか。自分は一介の学生であり、生活するのが精一杯。このような状況の子供を育てるのは現実的にとても不可能だ。しかも、冬子はお金のことを理解できないため、スーパーに行くと、お腹が空いていたら、その場で食べ物を口に入れてしまう。店員にお金の支払いを求められると、持っているお金を全部差し出してしまう始末だ。本来は、この子を見つけ出した後、その父親を探すつもりだったが、現状では、父親に頼るのは無理だ。しかし、この子を白菜街に帰すわけにもいかない。
解決策を見いだせないまま、実習が終わった。1996年5月中旬、北京に戻るときがやって来た。再三悩んだ末、鄒さんは数百元の所持金を全部冬子の服のポケットに入れて、バスに乗って白菜街に戻った。「ここで私を待っててね、すぐに戻ってくるから」。冬子も薄々気づいたようだが黙って頷いた。彼女はまるで何か悪いことをしたかのように、逃げるようにその場を立ち去った。
「弟」連れの大学生活
宿舎に戻って、鄒さんは荷造りを始めた。あと2時間で北京行きの列車に乗らなければならない。次第に日が暮れ、街には明かりが灯され始めた。鄒さんは葛藤し続けた。薄暗い街灯の下で、冬子が一人ぼっちで立っている姿が脳裏に浮かんだ。父親に捨てられて、母親にも置き去りにされたこの子……。彼女は心が引き裂かれるかのように苦しかった。気が付くと、宿舎を飛び出し、タクシーで白菜街に向かっていた。冬子はすっかり日が暮れた通りにたたずみ、まだじっと待っていた。彼女は彼を思いっきり抱きしめた。涙がとめどなく溢れ出た……。
冬子を連れて北京に戻った彼女は、その後3年間、苦しい生活を強いられた。
冬子と一緒に生活するため、彼女は大学の近くに小さな部屋を借りた。家賃と生活費、彼女にとっては大変な負担である。郵便物仕分けのほか、教室の掃除のバイトも引き受けた。毎月300元余り収入が増え、どうにか生活できた。状況をわかったためか、冬子も一生懸命家事を分担したりして、父親のことも聞かなくなった。時には、彼女が自ら父親のことを言い出すが、冬子は、「ぼくには父親なんかいない。お姉ちゃんと一緒に生活する」と慰めてくれる。
ある日、鄒さんが外国語の単語を声に出して読み上げながら覚えていた。すると、なんと冬子も一緒に読み出したではないか。しかも、発音がはっきりしていて正しいのだ。彼女は驚いた。そして、わざといくつかの単語を読み間違えてみた。すると、冬子も同じように間違えた。そのとき、鄒さんがふと思った。「もしかして、この子は知的障害者じゃないかもしれない」
冬子に学校教育を受けさせようと考えた彼女は、中学校の国語教材を探してきて、冬子に教え始めた。すると、彼は勉強した内容を全部覚えられるし、すらすら暗唱もできた。鄒さんは冬子を病院に連れて行って検査してもらった。先生は、「この子の脳の発育は非常に珍しい。記憶力は格別に優れている。しかし、論理的思考能力はとても低い。このようなタイプの子は正しく育てれば絶対に逸材になる」と話した。鄒さんはとても驚くと同時に嬉しかった。
どんなに生活が厳しくでも、彼女は孤児の身元を引き受けていることをだれにも言わず、ただ黙々と生活の重荷をひとりで背負い、冬子を育てていった。
このような困難な状況でも、彼女は学業を疎かにすることはなかった。1998年11月、彼女は優秀な成績で清華大学の唯一の学生代表として、北京市第三代電子衝突機の国家重点研究プロジェクトに参加し、他の研究者から好評を博した。また、彼女の懸命な教育が報われて、冬子も小学校のすべての授業を独学でマスターした。
全額奨学金の留学を断念
1999年3月初め、朗報が飛び込んできた。鄒さんの電子衝突機実験での実績が評価されて、米国フロリダ州立大学が彼女を博士課程に受け入れるというのだ。しかも、すべての費用をまかなえる奨学金を提供するという条件付きだ。ところが、出国手続きのとき、思わぬ難題に直面した。
1999年4月初め、彼女は同大学の入学許可書とパスポートを持って米国大使館を訪れ、ビザの申請を行った。審査官から、冬子と彼女の親族関係を示す公証書や、冬子の米国の身元保証人を求められた。彼女は冬子とは親族ではないが、状況が特別であるため、離れるのは不可能だと繰り返し説明した。また、身元保証人について、自分の奨学金で2人の生活を十分にまかなえると訴えた。しかし、審査官は譲らなかった。
1999年10月末、フロリダ州立大学の入学期限が過ぎ、鄒さんはこのまたとない留学の機会を放棄した。彼女は中国のシリコンバレーと呼ばれる中関村で月給2000元(約3万円)のソフトエンジニアの仕事に就いた。経済状況がすこし改善したので、冬子を学校に入れた。毎日仕事が終わると、ご飯を作って冬子の帰りを待つ。息子を待つ母親のように、静かで穏やかな生活を送り始めていた。
1999年12月末、フロリダ州立大学は鄒さんが入学していないことに気づいた。不思議に思った学校側は状況を確認するため、清華大学に手紙を送った。彼女はすでに米国に行ったと思い込んでいた指導教授の欧陽氏は、米国からの手紙をみて非常に驚いた。
「黄金のように輝く心に感謝」
教授は愛弟子の行方を捜し続けた。彼女が留学の機会を放棄して、国内でソフトエンジニアの仕事をしていると知ったとき、教授は彼女を厳しく叱った。ことの経緯を打ち明けられると、年老いた教授は思わず嘆き、「この子を私と妻に託せばよかったのに」と無念の言葉を発した。鄒さんは、「教授はすでにご高齢ですから、そんな苦労をさせるわけにはいきません……」と呟いた。「君のやったことは間違っていない。留学について、何かいい方法がないか探ってみる」と教授は話した。
2000年2月、旧正月の直前に、ユネスコのオブザーバー、デービス女史が清華大学を訪問した。その関連のシンポジウムに欧陽教授も出席した。米中両国の留学生の交流に関する意見交換のとき、教授は鄒さんが米国に留学できなかった一件を取り上げた。
ことの経緯を聞いたデービス女史は非常に驚いた。このようなことで留学を放棄してしまうなんて、女史は心から感動した。
2000年4月、デービス女史から手紙が届いた。中に、女史が自ら署名した冬子の身元保証人資料と米国の華人中学校の入学許可書が同封されていた。冬子を米国に連れて行くためのすべての障害が取り除かれたのだった。鄒さんは手紙で女史に感謝の意を表した。
デービス女史は鄒さんの手紙への返信で次にように綴った。「私のほうこそあなたに感謝すべきだ。あなたの行いから、私は中国の女性知識人の風格、尊厳と黄金のように輝く心を見ることができたのだから。あなたたちが米国に到着したら、私は喜んでさらなる支援を提供したい……」
2000年5月、鄒暁晶さんは冬子を連れて、米国留学の途についた。
(完)
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