カール・マルクス(1818~1883)が唱えた「科学的社会主義」は、後にマルクス主義とも呼ばれる。彼は「資本主義の高度な発展により、やがて社会主義さらには共産主義社会の到来が必然である」と説いた。
マルクス自身は19世紀の人物である。ところが彼が後世に残した予言的学説は、一種の「妖魔」となって20世紀に生き延び、その時代の思想界および民衆をふくむ社会全般に大きな影響を与えた。
これを通常通り「共産主義」と呼んで、ひとまず間違いはない。ただし、それは単なる思想や学説では決してなく、人類に対して悪魔性を教唆するという意味で、非常に恐ろしく、厄介なものなのである。
大紀元九評編集部による評論『悪魔が世界を統治している』の「はじめに」冒頭部分は、以下のように記す。
「東欧の共産主義陣営はすでに崩壊した。しかし、共産主義の邪霊が消滅したわけではない。実際、この悪魔はすでに世界を統治している。人類は決して楽観視することが許されない。共産主義は決して一種の思想や学説などではなく、人類が解決策を求めたときに失敗した試みでもない。それは悪魔であり、またの名を共産邪霊といい、恨みと宇宙の低い次元に存在する様々な腐敗した物質によって構成されている」
ところが、一体どういう発想からか、その共産主義にもとづいて「世界革命」を実現させようとする動きが20世紀前半から持ち上がった。
国際共産主義運動と呼ばれるこの運動の中心となった組織が、1919年にレーニン(1870~1924)によってモスクワで設立されたコミンテルンである。
1917年に帝政ロシアが倒れ、1922年12月にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立する。レーニンはその指導的地位にいたが、最晩年は病状が重く、周囲との意思疎通も難しくなっていた。1924年1月にレーニンが死去すると、スターリン(1878~1953)がその権力を一気に掌握した。スターリンはレーニン死後の1924年から、ボリシェビキの基本路線である世界革命論を放棄し「一国社会主義論」へ転換する。
これに対して、トロツキーは永続革命論を主張した。スターリンは「ソ連一国で社会主義建設が可能である」として、トロツキーをソ連共産党から除名する。トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが放った刺客により、頭を割られて殺される。
スターリンは1930年代に「大粛清」を行っている。それは政権幹部から一般党員、および共産党員ではない民衆にまで及ぶ恐るべき大弾圧であったが、そのことに触れるのは本記事の趣旨ではない。
ここでは、1919年からの国際共産主義運動が全世界に波及したことにより、日本、中国、米国をふくむ多くの国で、マルキシズムを標榜する革新政党が一気に生まれたことを、20世紀における看過できない歴史として確認しておきたい。
その中国共産党に王明(1904~1974)という人物がいた。王明は、モスクワのコミンテルン本部から中国代表に指名されたが、1930年代には毛沢東との権力争いに敗れ、党内での権力は全く失われていた。
王明が40年代の延安整風運動で殺されなかったのが不思議だが、あるいは毛沢東に「あとで王明を使って、ソ連との関係を深くしたい」という思惑があったからかもしれない。そのことは、後述の内容に関連する。
もちろん毛沢東は、とうの昔から「世界革命」などは考えておらず、ひたすら蒋介石を倒して中国全土を掌握することだけを願っていた。その目的のためならば、日本軍の存在さえ利用できると見ていた。王明は、1956年に「病気治療」の名目でソ連に亡命し、再び中国へ帰ることなくその地で果てた。
さて、今では遠い昔話になってしまうが、スターリンのソ連共産党と毛沢東の中国共産党が極めて仲の良い「蜜月関係」であった時期がある。建国直後の1949年12月に毛沢東自身がモスクワを訪問して以来、スターリンが死ぬ1953年までは、そうであったと言ってよい。
もちろん毛沢東は、スターリンに心をゆるして近寄ったのではない。とにかくソ連のもつ重工業の技術と現物の機械を得たいため、笑顔の仮面をかぶり、下手な演技力を駆使して、腰が折れるほど下手(したて)に出ただけである。
ソ連の技術者を中国へ多数招へいし、これを厚遇して、中国人技術者に学ばせた。信じがたいことだが、当時の中共のスローガンは、ソ連を兄に見立てて「お兄さんに学べ!」であったほどだ。
教えに来ていたソ連の技術者にも良い人がいたらしく、やがて中ソ対立の時代が来て、彼らが本国へ帰らなければならないときに、個人的な友情の証として、貴重な手引書や設計図を中国人技術者に残していったという美談もある。
毛沢東が、ソ連から最も学びたかった技術は「原爆の製造法」だった。
これは毛がスターリンに相当頼んだらしい。スターリンはしぶったが、ついに折れて中国に教えてやった。その中国は1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプノール湖で初の核実験を実施する。その日が東京オリンピックの期間中であったことを、日本人としては忘れないほうがいい。
スターリンが1953年に死んで、フルシチョフが「スターリン批判」を行うのが56年である。その後、中ソの指導者は、互いに腹を探り合うような行き来を重ねるが、60年代から明確にその溝を深め、次第に相手を罵倒するようになる。ついに1969年には、ウスリー河のダマンスキー島で大規模な軍事衝突を起こす。
20世紀を振り返るのが本記事の趣旨なので、中ソそれぞれの是非について、ここで言及するつもりはない。ただ、20世紀を通じて行われた国際共産主義運動という「大実験」が、人類の幸せはおろか、無数の犠牲者以外の何も生み出さなかったことは悲しむべき事実として認めなければならないだろう。
また、むかし私たちが「東側諸国」と呼んでいた共産圏の国々には、利害関係以外の、何の連帯もなかったことは、過ぎた歴史を振り返って今わかったと言うしかない。
警戒すべきは、20世紀の共産邪霊が世界の各処に浸透して、21世紀の今も生き残っていることなのだ。
それはまさに、レーニンと毛沢東の遺体がそれぞれ防腐処理され、国民の崇拝の対象として、巨大な廟に、神のように安置されていることにも象徴されている。猟奇的とも言えるその異常性に、誰も気づかないのか。
死んだものが誰であれ、きちんと火葬するのが正常な国家の責任であろう。
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