もし社会主義者が本当に「社会主義」を理解していたら

2025/10/06 更新: 2025/10/06

米ニューヨーク市では最近、大きな動きが見られた。予備選では「民主社会主義者」を自評するゾーラン・マムダニ氏が市長候補として台頭し、バーニー・サンダース氏やアレクサンドリア・オカシオ=コルテス氏も全米で積極的に活動している。さらに、オカシオ=コルテス氏が2028年の民主党大統領候補になる可能性は、わずか1週間で倍増した。

こうした動きは、社会主義的レトリックが米国政治で勢いを増していることを示している。ピュー・リサーチ・センターの調査でも、18〜29歳の約36%が社会主義を肯定的に捉えており、社会主義の理念や実態について正確な理解を促す教育の重要性が高まっている。

20世紀で最も影響力のあった経済学者・政治哲学者の一人でありノーベル賞受賞者でもあるフリードリヒ・ハイエクはかつて「もし社会主義者が経済学を理解していたら、彼らは社会主義者ではないだろう」と述べた。その見識を踏まえれば、「もし社会主義者が社会主義を理解していたら、彼らは社会主義者ではないだろう」と付け加えたい。

社会主義とは、財産や天然資源などの生産手段を私的ではなく、公的に所有・管理すべきとする社会経済的理念である。すなわち、生産手段を個人ではなく共同体や国家が掌握する政治経済体制を指す。言い換えれば、実際にはその支配権が少数の政治的エリートに集中しやすい仕組みでもある。

経済システムが資本主義であれ社会主義であれ、あるいは他の形態であれ、そのシステム自体はユートピアでも目的そのものでもなく、あくまで目的を達成するための手段にすぎないことに留意すべきである。経済システムは希少な資源や財、サービスを配分し、その方法は私的あるいは社会的な意思決定プロセスによって異なる。しかし、最終的な意思決定の主体は個人である。

現代の貨幣経済は、個人や集団による価値判断と、需要と供給によって形成される価格を基盤として成り立っている。ただし、何を供給し、何を需要とみなすかを決定する主体は、経済システムによって異なる。社会主義は、所有の共有によってより多くの人々が経済に参加し、利益を分かち合えると主張する。しかし、それは理想論にとどまり、いまも議論の中心的な論点であり続けている。

多数の社会主義者は、生産物の共同所有という根本原則を軽視し、所有権や再分配の要求に焦点を当てがちである。生産という前提が省みられないまま語られることで、社会主義は本来の構造を問われることなく、都合よく理想化された経済モデルとして語られている。

そのため、社会主義の名の下で多くの公的・政治的議論が行われているものの、実際に論じられているのは「真の社会主義」とは異なる場合が多い。議論の焦点は、生産を支える工場や土地、資本といった生産手段の共同所有ではなく、主に生産された財やサービスの所有権や配分に向けられている。

要するに、社会主義者を自任する多くは、生産手段の所有よりも、すでに存在する財やサービスに対する権利の主張に関心を寄せている。その結果、経済システムをめぐる論点は、生産手段を誰が管理するかという根本問題から、最終的な再分配をどう行うかという二次的な問題へとすり替わっている。

生産手段そのものではなく、生産物への支配欲こそが、社会主義と結びついた多くの政策やアジェンダに顕著に表れている。これらの取り組みはしばしば「無料」の財やサービスを求めるが、実際にはその裏で必ず誰かがコストを負担し、生産が伴う以上、本当の意味で無料なものは存在しない。

その代表例として、社会保障、公営住宅、国営の公共事業、福祉や失業給付、家賃統制、そして富の再分配を目的とする累進課税などが挙げられる。これらの政策に共通するのは、生産手段の所有や管理ではなく、最終的な生産物の分配に焦点を当てている点である。ここで問うべきは、社会主義者は本当に生産手段そのものに関心があるのかということだ。

これらの政策の運用とその結果は、むしろ逆の現実を示している。いわゆる社会主義的政策は、生産手段の共同所有を真に目指しているのではなく、生産の最終的な成果をいかに統制するかに重点を置いているにすぎない。再分配の対象となる「生産手段」は実際には貨幣という形の資本に限られ、それ自体が目的とされているわけではない。

人々が最終的に求めているのは貨幣そのものではなく、それによって得られる財やサービスである。したがって、現代の多くの再分配政策は、生産の社会化ではなく、生産成果の再配分として機能していると言える。

現代の社会主義政策を擁護する際にしばしば援用されるのが、「超富裕層が存在する一方で、大多数の人々はそうではない」という指摘である。その根底には、誰も過度の富を必要としていない以上、富の由来にかかわらず再分配されるべきだ、という考え方がある。こうした議論の延長線上で、多くの人々は他者の富に対して自ら固有の権利を持つかのように受け止めている。

これに対し、米国の著名な経済学者のトーマス・ソウェル氏はかつて次のような問いを投げかけた。「他人が働いて得たものについて、あなたの『正当な取り分』とは一体何なのか」。さらに、ソウェル氏は「自分が稼いだお金を保持しようとすることが『強欲』とされる一方で、他人の金を取り上げようとすることが強欲と見なされないのは理解できない」とも述べている。

いずれにせよ、「富は分配されるべきだ」という社会主義的な主張を検討してみよう。この考え方はしばしば、「持てる者」と「持たざる者」という道徳的な対立構造として提示される。つまり、持てる者は単に持ち過ぎており、その一部を持たざる者に分け与えれば、後者も成功し「豊か」になれるという発想である。典型的な例として、生活の基本的なニーズを満たすのに苦労するひとり親や、社会に出たばかりの貧しい大学生・新卒者が挙げられる。これは不平等を訴える際に共感を呼びやすく、頻繁に用いられる説明である。ただし、誰もが程度の差こそあれ満たされないニーズを抱えており、その内容が本質的に主観的であるという普遍的な事実は、しばしば見落とされがちだ。

では、より具体的に考えてみよう。こうしたひとり親や大学を卒業したばかりの若者が本当に求めているのは、生産手段の所有だろうか。つまり、土地や機械、原材料、あるいは財やサービスを生み出す複雑なプロセスそのものを持ちたいのだろうか。

それとも、単にその成果、すなわちより多くの財やサービスや所得を、できれば他者の負担で享受したいと望んでいるのだろうか。この点に決定的な違いがある。現代の社会主義的議論の焦点は、生産の民主化ではなく、消費の再分配に置かれており、それは当初の伝統的な社会主義の目的とは根本的に異なる議題なのである。

議論が富に移っても、ソウェル氏はその前提自体に疑問を投げかけている。彼は、「所得や富の再分配が包括的かつ持続可能な形で本当に可能なのかという重大な問題がある」と述べる。ソウェル氏はその例として、15世紀末のスペインにおけるユダヤ教徒追放令を挙げる。強制的に追放されるとき、ユダヤ人は物質的な財産を持ち出すことを許されなかった。しかし彼らは、より価値のあるもの、すなわち技能や知識、文化的資本を携えていた。やがて多くのユダヤ人共同体は、特にオランダで生活を再建し、生活水準を高めていった。

一方で、残された富の恩恵をかつて享受したスペインは、今日では一人当たりGDPや生産性において西欧の多くの国々に後れを取っている。

この歴史的事例が示しているのは、既存の富は再分配できても、富を生み出す能力そのものは再分配できないという原則だ。ソウェル氏はさらにデトロイトの事例を指摘する。政策や規制の変更によって、都市の熟練した人材の大部分が流出した。工場や機械、インフラは残ったが、それを効果的に運営・維持する知識を持つ人材が欠けていたため、受け継がれた富は急速に劣化した。

ソウェル氏の結論は明確である。没収された富はいずれ消耗し、それを活用・維持する能力を持たない者が相続しても、それを保持することすら難しく、ましてや増やすことは不可能だ。これは、再分配の取り組みが潜在的な富の創造者に労働の成果を保持できないかもしれないというシグナルを与え、将来のイノベーションを阻害するからである。

これは、人々が金銭そのものを資本と誤解したときに生じる現象である。お金を再分配可能な生産要素と見なす一方で、取引の裏側に購入可能な財やサービスが存在して初めてお金に価値が生まれるという事実を見落としているのだ。

富が長期的な価値を持つのは、それが起業家の知識や技能、時間、リスク負担、調整能力と結びついた場合に限られる。つまり、生産と富を生み出すのはお金単独ではなく、複数の要素が組み合わさったときに初めて可能となるのである。

出典:Mises.org

現在、アメリカのウェーバー州立大学とソルトレイク・コミュニティカレッジで非常勤教授を務め、古典派経済学理論や自由市場の原則に基づく講義を担当している。過去には、中国の上海師範大学で海外講師として教鞭を執り、起業やビジネス運営に関する講座を担当するとともに、同大学で開催された第10回年次ビジネスコンペティションの審査員も務めた。
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