論評
イーロン・マスク氏の最近の発言をきっかけに、AIが経済に及ぼす影響をめぐる議論が改めて活発になっている。発端となったのは、政府が家計に直接現金を給付することで支えられる「誰もが高い所得を得られる社会」を将来像として語る動画クリップが広く出回ったことだ。その映像はXで急速に拡散し、金融メディアでも大きく取り上げられた。マスク氏はその中で、AIによる生産の伸びはマネーサプライの増加を上回るほど急速になるため、こうした給付はインフレを招かず、むしろデフレ的に働く可能性すらあると主張している。彼の理屈では、財やサービスの供給が貨幣の増加よりも速く拡大するなら、政府が家計に現金を配っても物価は下がるはずだという。
この考え方は、AIによって雇用が大きく揺さぶられる労働市場では所得支援が必要になるという、彼が以前から示してきた主張の延長線上にある。ただ今回は、それをよりはっきりとした貨幣論の形にまで押し広げている。つまり、生産性の伸びが十分に大きければ、大規模な通貨供給の拡大も必ずしも物価をゆがめるとは限らない、というわけだ。
確かにこれは印象的な主張である。そして、こうした発言がなされたタイミングにも意味がある。マスク氏の事業上の利害は、AIによる変化がどれほど大きく、どれほど避けられないものとして受け止められるかと、ますます強く結びついているからだ。彼のAI関連事業はSpaceXを中心とするより大きな事業圏の中に深く組み込まれつつあり、しかも近く大きな資本市場におけるイベント(IPO)が控えるとの観測も出ている。そうした中で、AIを単なる段階的な技術革新ではなく、世界経済の構図そのものを塗り替えうる力として描こうとする誘因が働くのは当然だろう。
もちろん、それだけでそのビジョンが誤りだとは断言できない。しかし、「豊かさ」「不可避的な進歩」「摩擦のない適応」を強調する言説は、少なくとも部分的には、将来を見据えた「ナラティブ(物語)」として読み解く必要がある。つまり、それは単に「何が起こりうるか」を語っているのではなく、投資家や社会全体が「何を起こるものとして受け止めるべきか」を方向づけようとする試みでもある。
しかし、この主張を支える経済的な論理をたどっていくと、問題が見えてくる。たとえ高い生産性のもとにあっても、貨幣を発行すること自体が、実質的な意味で新しい所得を生み出すわけではない。それは、生み出された財やサービスに対する請求権を配り替えるにすぎない。財やサービスは、結局のところ誰かが生産しなければならない。購買力を配るだけで生産が増えるわけではなく、変わるのは誰がそれを手にできるかだけである。
たとえAIによって利用できる財やサービスの総量が大きく増えたとしても、貨幣がどのような経路で経済に流れ込むかはきわめて重要だ。新たに供給される貨幣は、均等にも同時にも行き渡らない。政府給付、金融機関、資産市場など、特定の経路を通って経済に入ってくる。そして、その入口の違いによって、どの分野の価格が先に動くのか、どの分野に需要が集まるのかが変わってくる。
だからこそ、インフレやデフレを「総生産」と「マネーサプライ」の単純な比率で説明できると考えるのは誤解を招く。価格は経済全体で一斉に決まるものではない。供給、需要、期待値、そしてタイミングの相互作用を反映した「相対的なもの」だ。新しい貨幣が経済に入れば、ある価格は先に動き、別の価格は遅れて動く。その過程で人々の行動や企業の判断が変わり、資源の流れも変わっていく。ある分野は本来以上に拡大し、別の分野はコスト上昇や需要の変化によって実質的な負担を強いられる。こうした相対価格の変化は、単なるノイズではない。経済全体が何をどれだけ生産し、どこに資源を振り向けるかを調整する仕組みそのものである。そこがゆがめば、生産の組み立てそのものがちぐはぐになってしまう。
こうした世界になっても、金融政策の役割が消えるわけではない。見えにくくなることはあっても、重要性が薄れるわけではない。所得移転が継続的な貨幣供給の拡大によって賄われるなら、金利や信用環境はやはり影響を受ける。人為的に流動性が潤沢になれば借入コストは押し下げられ、その結果、本来の資源制約や消費者の選好に支えられていないにもかかわらず、見かけ上は採算が合うように見える投資が増えかねない。実際、こうした兆候はすでに現れ始めている可能性もある。その結果、ある分野では過剰な拡大が起き、別の分野では必要な投資が不足する。これは過去にも繰り返し見られてきた、おなじみのパターンだ。最終的には、金融環境の引き締まりや期待の変化をきっかけに、そうしたゆがみが修正される局面を迎えることになる。
注目すべきなのは、今回の発言が、マスク氏が以前から語ってきたAIによる「持続可能な豊かさ」という将来像と非常によく似ていることだ。彼は長年、自動化の進展によって生産能力が飛躍的に高まり、希少性そのものが経済の中心問題ではなくなると論じてきた。今回の議論は、その発想をさらに押し進めたものにすぎない。つまり、希少性が後退するのであれば、貨幣の分配は従来の制約からかなり自由になり、ほとんど事務的な手続きのようになる、という考え方である。
だが、まさにそこに概念上の誤りがある。技術は可能性の幅を広げる。生産の限界線を押し広げることもできる。だが、それによって現在と将来のあいだの調整が不要になるわけではないし、資源をどう配分するかという問題の重要性がなくなるわけでもない。
生産能力が大きく高まる可能性自体は、十分に現実的なものだ。AIの進展によって、経済の幅広い領域でコストが下がり、生産工程が効率化され、これまでにない新しい形の産出が生まれる可能性は十分にある。だが、豊かさが増すからといって、調整の必要が消えるわけではないし、貨幣の役割が薄れるわけでもない。価格の動き、投資判断、所得の流れは、依然として制度の設計やインセンティブの構造によって左右される。そうした力学は、産出がどれだけ速いペースで増えようとも、変わらず働き続ける。
今後数十年のあいだに、いま思い描かれているような変化が少しでも現実のものになるなら、その成否を左右するのは技術の力だけではない。それに合わせて経済の仕組みがどれだけうまく適応できるかにもかかっている。より少ない投入でより多くを生み出せるようになることは確かに大きな前進だ。しかし、それでも市場における適切なシグナルの重要性や、資本を規律ある形で配分する必要性がなくなるわけではない。
産出の増加と並行してマネーサプライを拡大しても、こうした問題を飛び越えられるわけではない。むしろ両者は互いに作用し合い、扱い方を誤れば、市場が判断材料としている情報を明確にするどころか、かえって見えにくくしてしまう。少なくとも一つ確かなのは、世代を代表するイーロン・マスク氏の発想がニューヨークのマムダニ市長のそれと重なって見えること自体、私自身を含めて、経済学者が基本的な経済学の概念をもっとわかりやすく伝えなければならないことを示している、ということだ。
American Institute for Economic Research (AIER)より転載

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