論評
この1週間は、ジェイソン・アーデイ氏が、自身の学問的な信頼性をめぐる調査が進む中で自ら命を絶ったという衝撃的で悲しい知らせとともに幕を閉じた。彼はケンブリッジ大学で高く評価されていた教育社会学者であり、メディアの寵児でもあった。大型の出版契約を獲得し、世間からもてはやされ、数え切れないほど多くのメディアで、まるで偉人をたたえるかのような人物紹介記事の題材となっていた。
しかし何年も前から、「彼にはこれほどの称賛を受けるだけの資格や実力がない」と、ひそかに語る者は少なくなかった。彼は天才ではなく、虚構の上に成り立つ人物だったのだ。しかし、それを公然と口にすることは自らのキャリアを危険にさらす行為であり、その結果、彼は追及を免れ続けた。だが、米国の研究者がこの問題を本格的に暴き出したことで、幸運の糸は切れた。こうして、積み上げられてきた嘘はすべて崩れ去ったのである。
彼が冠教授付きの正教授という異例の地位に――しかも最年少の黒人教授として――就任した背景にある構造は、決して彼一人に限った話ではない。だが、彼の盗用疑惑や経歴の脚色が次々と暴かれ、それが国際ニュースとして世界中に報じられると、彼は絶望に耐え切れず悲劇的な結末へと追い込まれていった。
言うまでもなく、この若者は「DEI」という仕組みの恩恵を受けていた。DEIとは、かつて「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」と呼ばれていたものが、露骨なアイデンティティ政治に基づく広範な優遇へと変質した新しい言葉だ。これを単なる「逆差別」と片付けることはできない。それは制度化された差別であり、二重の歪みを生み出している。すなわち、機会を奪われた人々の間に深い憤りを募らせる一方で、この流れに乗って実力に見合わない名声を手にする人々に対しても、表には出ない深い軽蔑を育ててしまうのである。
人種だけを理由に高い肩書や給与を与えるこうした制度について、私には以前からもう一つ強く気になっていることがある。それは、この仕組みの根底に「人を見下す態度」があり、同じ人間に対する虐待と言ってもよいほど残酷な側面を持っているという点だ。実力に見合わない過剰な評価で恩恵を受ける人々に反感を抱くのは理解が容易だが、一見するとその「恩恵を受けている」側の人々が置かれている過酷な苦境にも、私たちは目を向ける必要がある。
数年前、私はある大学の管理職と、その妻と知り合う機会があった。彼はまさに、そうした立場に置かれていた人物だった。私たちはある夕食会で出会った。彼は大規模な州立大学の上層部で唯一の黒人男性だった。肩書は「公民権担当副学長」といったような、いかにも作られた役職だった。それは多様性があるように見せるために新設されたポストであり、彼があらゆる条件に当てはまっていたため、その役職が与えられたのである。
彼は新しい役職を誇りに思っていた。しかし話を重ねるにつれ、彼が小声で漏らす疑念も増えていった。大きな予算と多くのスタッフを任されているにもかかわらず、本格的な企画や意思決定を行うチームに加えられることはほとんどないという。主な仕事は資金集めの場に出向き、自分が貧しい家庭で育ち、人種差別を乗り越え、今では大学運営の権威ある地位に就いているという物語を語ることだった。しかし彼は率直に、「もう自分自身についてのその話にはうんざりしている」と私に語った。
私はもっと知りたいと思い、数週間後に再び彼と会った。彼はすべてを打ち明けてくれた。彼が育った教育環境では、期待以上の成績を上げる黒人学生が特に求められており、彼は常にその期待を上回っていた。しかし、実力に応じて一段ずつ上へ進むのではなく、自分が正当化できる水準を超えて、早い段階から必要以上に昇進させられ、引き上げられていることに気づいたという。
それが明白になったのが大学入試だった。彼は、自分の準備や実力をはるかに上回る大学へと押し上げられた。そこで彼は、優秀な学生たちの海の中で途方に暮れることになった。優遇は負担へと変わった。授業についていくことができず、手を抜いたり、ごまかしたりするようになった。そして早い段階で、そうしたことをしても自分は見逃されるのだと気づいた。
まるで制度全体が彼の味方をしているかのようだった。彼は、「どこの大学にも、親や祖父母からの縁故があり、信託財産に支えられている白人の学生がいる。自力で進学した労働者階級の学生より努力していない者もいるのだから、自分のケースもそれほど珍しいことではないのかもしれない」と自分自身に言い聞かせようとした。
しかし彼によれば、常にいくつもの方向から重圧を感じていたという。米南部の貧しい黒人家庭で育ち、成功を期待されていなかったことだけでも悲しいことだった。しかし、それ以上につらかったのは、自分にふさわしい以上の昇進や機会を与えられ、しかも周囲の誰もがそれを知っており、自分を補償的な制度を象徴する単なる「お飾り」程度に見ていると感じていたことだった。
彼は、自分が迫られてきた選択について語った。実力に見合っていないと自分でも分かっていた高評価や特別な進級、賞、注目を拒否することもできた。しかし、それを拒否することにどんな意味があるのか、彼には分からなかった。結局、彼はそれらすべてを一種のゲームの一部として受け入れた。そして、自分が加わった制度そのものへの信頼と敬意を失っていった。なぜなら、その制度は最初から彼に高い水準の成果を本気で期待していなかったからである。
彼はさらに、大学院や博士課程でも同じことが続いたと語った。その過程のどの時点でも、いつ拒否すべきなのか、いつ「ノー」と言うべきなのか、自分が表向き恩恵を受けているとされた制度の見下した態度や欺瞞を、いつ告発すべきなのか分からなかったという。実際、彼自身は自分をそれほど「恩恵を受けた人間」だとは考えていなかった。むしろ、すべてを重荷に感じていた。そして白人の学生たちが直面していたもの、すなわち高い期待と、自分自身の努力によって一段ずつ上へ進んだと実感できる満足感さえ、自分から奪われたように感じていた。
話は、当時彼が就いていた役職に行き着く。彼自身、その役職が少なくともある意味では形だけのものだと分かっていた。しかし同時に、自分にも大学文化に貢献できるものが本当にあると信じていた。それを妨げていたのが、DEIによって選ばれた人物というレッテルだった。彼は幼いころから、人生のどの分野でも肩書を得ることは簡単だが、同僚からの本当の尊敬は自ら勝ち取らなければならないと分かっていたという。だが、自分にはその尊敬がなく、どうすれば得られるのかも分からなかった。
私は彼に助言できるような立場ではなかったので、できる限り親身になって話を聞くことに徹した。その後も私は長年、この出来事について何度も考えてきた。そして同時に、学術界ではこうした事例が不合理なほど増えていると感じていた。
もし教育や職業上の成功を決める制度全体が突然、「過去の不正を埋め合わせるため、テキサス州南西部出身の白人男性を昇進させる必要がある」と決めたらどうだろうか。私が何をしても、どこへ行っても、自分では選んでいないその属性を通して評価され、「テキサス州南西部出身だから」という理由で、ほかの人々を飛び越えて称賛されるとしたら、私はどう感じるだろうか。
ばかげていると思うだろう。ところが私の友人の場合、人種を理由として、実際の成果がなくても成果があるように見せるための学位課程や学部・学科まで次々と作られていたのである。そして、それを作っていたのは誰だったのか。大部分は、社会の過去の罪とみなすものを償おうとする白人の左派・リベラルであり、平等主義という自分たちの政治的な駆け引きの中で、黒人を駒として利用していたのである。
そして、それは学術界だけの問題ではなかった。DEIは米国企業、銀行、メディア、映画、芸術機関、出版業界へと広がり、現代社会のあらゆる領域や業界に浸透した。どこかの段階で異議を唱えれば、「人種差別主義者」と呼ばれる大きなリスクを負うことになった。実力主義が新たな人種的序列によって置き換えられている実態を覆い隠すため、情報伝達や規律・監視の仕組みまで作り上げられた。
学術界や企業社会では、この問題を告発した数え切れないほどの内部告発者が、苛烈な報復を受けてきた。誰もがルールを知っている。「従うか、排除されるか」である。アーデイ氏をはじめ、多くの人々がこれほど長い間こうしたことを続けられたのは、そのためである。勇気を持って異議を唱えた者は中傷され、潰される。そして最後に残るのは、嘘と共存することを受け入れた人々だけである。
このようなことが良い結末を迎えるはずがない。ジェイソン・アーデイ氏の場合、自ら太陽に近づきすぎて翼が溶け、地上へ墜落したイカロスのような話ではなかった。そうではない。彼は、それまで在籍した学校やケンブリッジ大学そのものによって、可能な限り高いところまで投げ上げられながら、パラシュートを与えられていなかったのである。
そしてある日、まるで突然の出来事のように、学問上の基準を問う人々が彼を追及し、大規模な盗用と信じがたい経歴の実態を明らかにした。彼は相手を非難するという従来のやり方を試みたが、調査は止まらなかった。彼の人生の物語全体が覆され、世間の笑いものにされようとしていた。しかも彼は、最初から誰もが偽物だと知っていた制度に従っていただけだったのである。
これほど公然と屈辱を受けることによる個人的な苦痛は、言葉では表現できない。それは刑務所に入ることよりもつらい。たとえ完全に自業自得だったとしても――批判者たちが指摘していたように、彼自身も最初からそのゲームに参加していた――その苦しみは、ほとんどの人間にとって耐え難いものだ。この件で私が最も腹立たしく思うのは、アーデイ氏が、それが単なる出来レースにすぎないと知りながら、その仕組みに加担したことですらない。私が憤りを感じるのは、その仕組みがまさにそのように機能するよう作られていたにもかかわらず、ある日突然、何の警告もなく機能しなくなったことである。
このような知的な欺瞞が拡大し、存続し続けたまま、何十年もの歳月が過ぎた。悪意ある人物が制度を悪用したというだけではない。制度そのものが、過去の不正に対する「公平」や「補償」という名目を与えることで、濫用や不正を正当化するよう作られていたのである。
実際、DEIはすべての人間の尊厳を傷つける。機会を奪われた人々も、内部告発者も、一見すると恩恵を受けている人々も同じである。それは罪悪感を抱えた知識人によって作り出された、社会工学的な欺瞞であり、その恩恵によって得をしているように見える人々さえ利用する仕組みなのである。
ジェイソン・アーデイ氏にはさまざまな問題があった。それでも、実力に見合わないまま頂点へ昇進させられることで生じる屈辱まで受けるべきではなかった。彼自身もずっとそれを分かっていた。私の友人が分かっていたのと同じである。自分自身を省みることのできる真摯な人間なら、誰でも分かることだ。こうした不合理なゲームは終わらせるべきである。持続可能なものではなく、恐ろしい悲劇に終わる可能性がある。

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