中国は、なぜ「人助けができない国」になったのか?

2023/06/23 更新: 2023/06/23

中国の古典であり、儒教の経書のなかでも特に重要とされる九つの書物を「四書五経」と呼ぶ。書名を列挙すると『論語』『孟子』『大学』『中庸』『詩経』『書経(尚書)』『易経』『礼記』『春秋』である。

そのなかの『孟子』は、人間が本来もつ「性善説」を明示したものとして、ひろく知られている。

孟子の「不忍人之心」は、どこへ消えたか?

以下に挙げた『孟子』公孫丑編の一節は、孟子の説く「性善説」を具現化した説明として、あまりにも有名である。本記事が伝える内容の中心でもあるため、原文を引用し、その下に日本語訳を添える。

孟子曰、「人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心。非所以内交於孺子之父母也。非所以要誉於郷党朋友也。非悪其声而然也。由是観之、無惻隠之心、非人也。(以下、省略)」

孟子は、こう言われた。                           「人は皆、他人の不幸をだまって見過ごせない心(不忍人之心)をもっている。古(いにしえ)の王は、この心をもっていたので、人々の不幸を見過ごさない政治を行った。この心をもって、人々の不幸を見過ごさない政治を実行すれば、天下を平和に治めることは掌で物を転がすように容易にできるのである」

「他人の不幸を見過ごせない心(不忍人之心)を具体的に言うと、例えばある人が、今まさに幼い子供が井戸に落ちそうになっている場面を見たら、どうするか。はっと驚き、子供を助けるために走っていくだろう」

「そのときに、この子供の親と良い関係をもちたいとか、この善行で世間から称賛されたいとか、あるいは助けなかったら世間から非難されるから、などといった打算的な考えは一切ないはずだ」

「それゆえに、他人の不幸を見過ごせない心をもたない者は、人間ではないのである(由是観之、無惻隠之心、非人也)」

孟子(紀元前3世紀ごろ)は今日でいう山東省の生まれで、中国の戦国時代に実在した人物である。言わば、今日の中国人の大先輩といってよい。

繰り返すが、他人の不幸を見過ごしたり、見ないふりをして助けずに逃げてしまったら「非人也」。つまり、その人間は「人間ではない」と孟子は断言しているのだ。

なお、日本語でいう「人非人(にんぴにん)」は、どちらかというと人を非難する罵語にちかいので、ここではひとまず置く。

なぜ「人助けができない国」になったのか?

「人助けを自分の喜びとする」ことは中華民族の伝統的な美徳だった。

しかし、孟子の時代から二千数百年を隔てた今の中国では、町で倒れている人を見ても助けるかどうか躊躇する人が、残念ながら非常に多い。

正確に言えば、人助けの気持ちはあっても、それを実行することに大きな迷いが生じるのだ。その結果として、見ぬふりをして通り過ぎるのである。

そのような事例として、記憶に生々しいのは「仏山市女児ひき逃げ事件」である。

12年前の2011年10月13日、広東省仏山市で2歳の女児「悦悦(ユエユエ)」が、両親が目を離した隙に一人で歩き、ワゴン車に轢かれた。

この時、ワゴン車は女児を2度轢いている。女児が生きていれば莫大な治療費が請求されるため「いっそ死んだほうが良いと思い」バックで戻って再度轢いた。犯人は、逮捕後にそう語っている。

その犯人の言葉だけで十分に「非人也」であるが、社会に衝撃を与えたのは、その場面を映した監視カメラ映像が世の中に知られてからである。

2歳の女児「悦悦」が地面に倒れている。なんとその側を、目視しただけでも18人の大人が、助けようともせず「素通り」しているのだ。

絶対に見えているはずだが、誰も見ようとしない。最後に悦悦を助けて抱き上げたのは、廃品回収業の女性だった。女児は病院に搬送されたが、その7日後に死亡する。わずか2歳の、あまりにも短い命だった。

この事故ならぬ「重大事件」は社会問題となり、北京の習近平氏のところまで届いた。さすがに習氏も「これは、ひどい」と思ったらしく、すぐに関係部門へ社会道徳の改善を指示している。

そこで2023年の今、習近平氏があの時に指示した「改善」がどれほど功を奏しているか、以下に検証しなければならない。

「なぜ助けたのか?」と聞く裁判官

ここでもう一つ、全ての中国人にとって、頭蓋骨に五寸クギを打ち込まれるような辛い記憶を、以下の論考の前提にしなければならない。

2006年11月20日、南京で「中国社会のモラル崩壊」を引き起こした特異な事件がおきた。

彭宇(ほう う)さんという20代の男性が、バス停で転倒した60代の女性を助け起こした。心優しい彭さんは、女性を病院に送り届け、その場の診療費まで立て替えた。

ところが、親切を受けたその女性が、なんと「この男(彭宇)に突き飛ばされて転んだ」と言い出し、家族ぐるみで彭さんを提訴したのだ。親切が仇となり、逆に賠償金を求められる、という前代未聞の「善行をめぐる事件」となった。

裁判の結果、被告となった男性(彭さん)に約4万元(約64万円)の支払い命令が下された。彭さんは懸命に釈明したが、裁判所は聞き入れなかった。この賠償金額は、当時の一般人の年収に相当するほどの「巨額」であった。

この時、裁判官の言った有名なセリフがある。「あなた(彭さん)がぶつかったのでないなら、なぜ助け起こしたのか?」。転倒した女性を助けたことが「加害の証拠」であるかのように、本来、公正を旨とすべき裁判官が決めつけて言うのである。

この事件以来、「善行は賠償や裁判沙汰になりかねない」という恐るべき結論が中国人の心に焼き付いてしまった。

ところで、ここに一つ疑問が残る。なぜ親切に助けてくれた若い男性に対して、助けてもらったはずの女性(とその家族)が「この男が加害者だ!」などと言い出したのか。

この点、日本人には理解しにくいと思われるので補足する。中国では健康保険制度が未発達であるため、病院の医療を受けたり入院したりすれば、実費として、とんでもない金額を請求されるのである。

そこで「可能性の高い推測」として、次のことが考えられる。自分で転んでケガをした女性の家族が(おそらくは医療費負担のこともふくめて)この親切な若者を「加害者に仕立てた」ということである。

彭宇さんにしてみれば、たまったものではない。しかし、こうした「陰謀」の存在を仮定しなければ、この話の前後関係がどうしてもつながらないのだ。

はじめに転んだ60代の女性に、認知症や被害妄想があるなどの情報は全くない。だとすれば、女性(とその家族)が意図して嘘をついていることになる。しかし、あろうことか裁判官は、その嘘つきの側に立ってしまった。

その瞬間に、中国全土のモラル崩壊が爆発的に進んでしまったのである。

「彭宇の二の舞」にはなりたくない

さらに2019年には、広東省で転倒した高齢者を病院まで連れていったうえ、診察費まで立て替えた親切な男性(40代)も、その高齢者の家族から入院費など巨額の請求をされてしまった。

彭宇さんの事件と類似する部分があるのは明白だが、こちらの男性は、なんと「身の潔白」を証明するため自殺してしまったのだ。そこまでして身の潔白を証明するからには、やはり「加害者扱い」されてしまったからだろう。

いまや「彭宇の二の舞にはなりたくない」という、人間の親切や善行とは真逆の概念が、中国社会のなかでガン細胞化していることは間違いない。

世界でも類を見ない「人助けができない大国」は、こうして出来上がった。

この場合、中国人の道徳が低下したというのは、むしろ表層的な事象である。その根底には「うっかり他人に親切にすると、かえって自分に被害が及ぶ」という、あまりにも生々しく、極めて現実的な不条理があるのだ。

このような背景もあって、道端でお年寄りが転んでも「助け起こすかどうか躊躇する人々」が増えた。助けたい気持ちがないのではない。助けたいとは思いながら、それ以外の要因によって、誰もがそこで「躊躇する」のである。

いざ助けようとすると、周りから「関わらないほうがいいよ、後であなたのせいにされかねないから」などと、わざわざ「優しさ」で止める声が上がることもある。(こちらの「優しさ」は、まだあるらしいが)

それでもなお「目の前の人を助ける」と心に決めた場合は、どうするか。

後から面倒なことにならないように「自分は潔白である」ことの証拠として、スマホで動画を撮る人が多いという。なかには、先に警察に連絡して、警察官という証人がいる前で「人助けする」という周到な手順を踏む人もいる。

証人がいなければ「人助け」ができないというのは、なんとも首をかしげたくなるが、それも今の中国の現実なのだ。

人間が「優しくなれない」という不幸

このような積極的な善行に抑制をかけるような社会であれば、それを実践する人がますます少なくなり、社会正義は萎縮する。

人間が心優しく、誠実に生きられないことが社会をこれほど荒廃させる。その典型が、まさに今の中国であろう。

そのようになった原因を総括的に言うならば、1949年に中国共産党が政権を奪って以来、中華民族がいかに王朝が変遷しても脈々と継続してきた伝統文化を変質させ、さらに文革期に至っては「破四旧」のスローガンのもと、古いものを徹底的に破壊するという大罪を犯してきたからに他ならない。

道徳とは、人々の生活が平穏な状態でなければ、美しく模範的な「かたち」になって現れないものである。

ところが、そこに割り込んできた共産主義という外国の悪魔思想は、極めて暴力的かつ闘争的であったため、中国人が万古より平穏に営んできた「普通の生活」をかき乱してしまった。優しさや親切、無私の人助けといった純粋な善行を、嘲笑の対象にまで貶めてしまったのである。

中国人の道徳低下は、共産党員の愚劣なふるまいを見れば一目瞭然であるが、なぜそうなってしまったかを庶民レベルでもう一度考えれば、そこには今の中国人がおかれた悲しむべき境遇があることに気づくのである。

困っている人を助けたいと心の底では思いながら、見ぬふりをして素通りする。その時、良心のある中国人ならば、実は、心がずたずたに引き裂かれているのだ。

つまり、孟子の説く「他人の不幸を見過ごせない心(不忍人之心)」がなくなってしまったわけではないのである。ただ、それを実行することが、今の中国では極めて難しい。その難しさは、例えば清流の岩魚が、黒く汚染された排水溝では生きられないことに匹敵する。

今の中国において自身が良い人であるためには、中国国内の法輪功学習者がそれを実践しているように、信仰にもとづく強靭な精神力を必要とする。

その「良い人」を、24年間にわたり迫害しているのが中国共産党である。

「当たり屋」から「通行料せびり」まで

悲しいことだが、中共統治下の中国で、本当に感覚がおかしくなって「悪」にどっぷり浸かってしまった庶民もいる。

中国共産党の幹部連中は、はじめから論外なので、ここでは触れない。中共幹部といえば、底なしの腐敗と不正蓄財、包二奶(愛人もち)、海外への財産移転、臓器収奪、いつでも海外逃亡するぞ――。以上である。他には、何のとりえもない。

中国語の「碰瓷(ポンツー)」は、日本語でいえば「当り屋」になる。ただし、ドライブレコーダーに映ったその哀れな様子を見ると、何やらもの悲しく感じるほどだ。

要するに、わざと車にぶつかって地面に倒れ、ケガをしたフリをして、お金をせびろうとする詐欺行為だが、それがあまりにも下手なのである。ウソが見え見えであったり、逆に本当に危険度の高い「飛び込み」であったりする。

「碰瓷」の語源は古い。もともとは屋外で陶磁器を売る露店商が、通行人に当たりやすいところへ安物の商品を置いておく。通行人がそれに当たったとき「これは高級品だから弁償しろ」と言いがかりをつける手口である。

今では、走っている車に「自分から当たる」のが「碰瓷(ポンツー)」となった。なかには、これを職業とする人もいるらしい。

中国で先月26日に遼寧省で撮影されたという動画のなかには、そんな命がけ(?)だが、あまりにも下手すぎる「碰瓷」の一幕があった。

ドライバーがとっさに反応してブレーキを踏んだため、車は完全に停止していた。しかし「当り屋」はそれでも車にぶつけられたフリをして、ボンネットに上るのである。

 

わざとらし過ぎて、こちらが呆れかえってしまう光景だが、このような「当たり屋」関連の動画は中国のSNS上にあふれている。なかには、走行中の車に自分から何度もぶつかろうとする、下心が見え見え過ぎるケースも少なくない。

 

そんな悪質な「当り屋」にぼったくられないよう、対策としてドライブレコーダーをつけるドライバーも多い。

実際「当り屋」に出くわしたが、「全てドラレコに記録されているぞ」と一言いえば、向こうから「あ、これは何かの間違いだった」と言って、そそくさと退散するケースもある。

(倒れているお年寄りを助け起こす際にも、後で問題が起きないよう、証拠を残すために撮影している。お年寄りは「何を撮っているんだ?」と聞いている)

 

これが「倒れている人を見ても助けない」の実例だ

先述の通り、いま中国では「倒れている人を見ても、すぐには助けない」という現象がある。

交通量の多い路上に、人が倒れている(わざと寝ている?)。高齢者のようだが、通行人や車のドライバーも、オートバイのライダーも、これに視線を向けるものの助けようとする人は一人もいない。車も、倒れている人をわざわざ避けて走り去っていく。

(3月12日の広州、高齢者が道路上に倒れている。「碰瓷」ではないと思われるが、誰も助けようとしない。車も、よけて通っている)

(ミニバイクの女性が激しく転倒して、かなりの重傷を負った模様。倒れたまま痙攣しているが、2メートル横にいる男性は知らん顔。通行人も、誰一人助けようとしない。明らかに、関わりになることを避けている)

(ある商店で、買い物をした男性客が店を出たところ、急に倒れた。ところが、誰もが知らんぷり状態。急病人の責任を、負いたくないらしい)

同様の動画はSNS上に数多く共有されている。コメント欄では「なんで、こんな世の中になってしまったんだ?」と誰もが嘆いている。

その背景には、そもそも倒れている人が「当たり屋」である可能性があることや、そうでなくても「彭宇事件」のように、助けた人が責任を負わせられるケースが実際にあったからである。

「触らぬ神に祟りなし」とばかり、面倒に巻き込まれるのを嫌がって、倒れている老人には近づかない、と心に決めている中国人も少なくない。老人を敬う儒教の国は、いまや見る影もないのだ。

そのほか、田舎の道を勝手に塞いで、通行する車のドライバーから「通行料」を取る村民なども少なくない。もちろん、彼らが勝手にやっていることで、違法行為であることは間違いない。

 

(河北省唐山の田舎で、わざと道を塞いで「通行料」を取る村民たち。もちろん、彼らが勝手にやっていることで、違法行為であることは間違いない。およそ1元から5元と安い金額なので、動画のドライバーは笑って渡しているようだが、十数カ所で「通行料」を求められたという。投稿者は「ここは土匪(盗賊)だらけだ」と嘆く)

 

李凌
エポックタイムズ記者。主に中国関連報道を担当。大学では経済学を専攻。カウンセラー育成学校で心理カウンセリングも学んだ。中国の真実の姿を伝えます!
鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。
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