死亡者 4千万人 中国共産党は1950年代どのように農民を餓死させたか

2025/11/25 更新: 2025/11/25

■論評

中国共産党(中共)の土地改革が、地主からの暴力的な財産没収であったように「統一購入・統一販売(統購統銷)」政策は、中国の農民に対する長期的かつ体系的な略奪であった。この政策の本質は、計画経済の名の下に合法化した収奪にほかならなかった。

この政策は、国家による穀物の買い上げと販売の独占を特徴としていた。農民は、すべての「余剰」穀物に加えて、家畜、卵、糖作物、蚕の繭、タバコ、麻、水産物などを、人工的に低く抑えられた価格で国家に売ることを強制した。その後、国家はこれらの物資を都市住民に対して、補助金付きの価格と定められた配給量で再分配した。

家賃のように機能した強制的な「公糧(public grain)」の割当とは別に、農民が自分たちのために残すことができたのは、国家に余剰分を差し出した後に残った穀物だけであった。この残りの穀物が、自分たちの食糧、種子、家畜の飼料となった。そしてその余剰がどれほどあるかを決めるのは国家であった。

この制度は1953年に始まり、1992年末まで存続した。

国家は穀物だけでは止まらなかった。合計132種の農産物を国家独占の対象とした。農民はこれらの農産物を市場で販売することを禁じられ、価格は国家が一方的に決定した。同時に、都市住民も農村住民も、食料、衣料、食用油、豚肉といった日用品を、政府発行の配給券によってしか入手できなかった。これらの配給券は、本質的に中国における第二の通貨となった。

この政策の起源は、1949年の中華人民共和国 成立後に起きた食糧不足にあった。それ以前、大都市は輸入小麦に大きく依存していた。1949年以降、中共は外貨を節約するため穀物の輸入を停止したが、その一方で都市人口と工業用の穀物消費量は増加していた。当時、中国全土に1億を超える農村世帯が点在していたため、国家は直接的な穀物調達が極めて困難であると判断した。そこで、国家は農業の集団化という解決策を打ち出した。農民たちはまず合作社に、次いで人民公社に強制的に組み込まれ、完全に政治的・経済的な支配下に置かれた。

中共は、安く買い叩き、高く売りつける価格政策を定めた。農産物は本来の価値をはるかに下回る価格に設定し、一方で農民に売る工業製品は原価を大幅に上回る価格にした。中国の学者たちの試算では、この仕組みによって農村から数百億ドルもの資金が吸い上げられたとしている。

その結果、中国の農村はすっかり搾り取られた。統購統銷政策は都市と農村の格差を劇的に拡大した。農民の犠牲こそが中共の大規模な工業化キャンペーン、そして最終的には核兵器や宇宙技術の開発に必要な資本を提供したのである。
 

名ばかりの「余剰」

理論上、中共が徴発したのは余剰穀物だけであった。しかし実際には、常に合理的な余剰量をはるかに超える割当目標を設定していた。穀物は現地で、余剰と自家消費分の区別なく押収され、種子や家畜の飼料までも没収された。

この政策が始まった後、当局が全国で徴収する穀物の割合は約10パーセント増加した。農村の穀物供給は極めて不足するようになった。何十年もの間、中国の農民は飢餓の瀬戸際で暮らすことになった。中共はこれを否定しなかった。実際、上層部の幹部たちはその状況を認めていたのである。
 

1962年5月、香港で食事を求めて並ぶ中国からの難民。大躍進政策による飢饉の期間中、14万人から20万人が不法に香港へ流入した(AFP via Getty Images)

 

中共が公式に出版した『劉少奇選集』によると、元国家主席の劉少奇は1959年の第8期中央委員会第7回全体会議での演説で、農民たちは満足に食べていないことを率直に認めていた。

「国家が必要とする穀物量と、農民が売りたいと思う穀物量との間には、非常に深刻な矛盾がある」と劉少奇は述べた。「農民の言い分を通せば、彼らは自分が腹いっぱい食べてからでないと穀物を売ろうとしない。しかし、みんなが先に腹いっぱい食べてしまったら、残るのは何もない、労働者も、教師も、科学者も、都市住民も食べるものがない。食べ物がなければ工業化は失敗し、軍は縮小し、国防は崩壊する」

中共の創立メンバーの一人だった毛沢東は、これをさらに露骨に述べた。

1953年、中国人民政治協商会議全国委員会で、著名な中国の哲学者梁漱溟(りょう そうめい)が農民への同情を示した際、毛沢東はこう答えた。「農民を思いやるのは小さな親切である。重工業を発展させ、アメリカ帝国主義を打ち負かすのが大きな親切である。小さな親切だけを示して大きな親切を示さないのは、実際にはアメリカ帝国主義者を助けることである」

つまり、毛沢東も劉少奇も、農民に食料を十分に行き渡らせない統治が慈悲深いものではないことは、完全に承知していたのである。彼らは、それが革命の大義と世界大戦への備えのために不可欠であり、より高い道義的義務であると信じていた。こうした論理により、大規模な飢餓は避けられないだけでなく、イデオロギー的にも正当化されるものと見なした。

 

強制 暴力 そして死

もちろん、農民たちは自分たち自身に十分な食料がないため、穀物を売りたがらなかった。割当量を強制するため、中共は強烈な政治的圧力をかけた。党は穀物の徴収を「社会主義教育」運動と結びつけ「資本主義的思考」を根絶することを目的とした。実際には、これらの運動によって穀物徴収は政治的迫害へと変質した。

多くの地域では、割当を達成できなかった農民は「反社会主義」あるいは「反革命分子」と糾弾され、戸別捜索、財産没収、公衆前での辱め、殴打、拷問が日常的に行われた。

公式のデーターによれば、1954年だけで穀物徴収に関連する事件により710人が死亡し、そのうち566人が自殺だった。これらの死者のほとんどが圧力と虐待の結果である。湖北省では150人、河北省では130人、河南省では108人が死亡した。中共がデータを隠蔽・操作してきた経緯を考えると、実際の数は確実にこれよりも多い。

山東省鄆城県では、実際の余剰穀物は2022万斤だったが、当局は3300万斤を要求した。斤は約0.5キログラム(約1ポンド)に相当する単位である。役人たちは強制と虐待によって2900万斤を徴収した。浙江省金華地区では、役人が257戸の家を家宅捜索または封鎖し、178人の農民が縛られたり殴られたり拷問されたりした。他の者たちも不法に拘束したり罰金を科した。

1955年、浙江省だけで少なくとも134人が穀物割当への抵抗中に死亡した。龍游県では4人が餓死した。開化県では126の村のうち39の村で、村民が樹皮や草を食べていると報告。栄養失調が蔓延していた。

広西チワン族自治区では最悪の事態が見られた。地元幹部は上層部への見栄から収穫量を水増し報告し、その結果、極端な過剰徴収が行われ、何千人もの人が餓死し、平楽県・荔浦県・横県などの地域では、飢饉と疫病が広範囲に蔓延した。

しかし、どれほど状況が絶望的になっても、中共はあらゆる不満や訴えを「反社会主義」の扇動、あるいはそれどころか反革命宣伝だと一蹴した。

中共は農村の飢餓危機を無視しただけでなく、穀物輸出量をさらに増やした。1953年には32億斤(160万トン)、翌1954年には39億斤(195万トン)の穀物を輸出し、全国各地で激しい抵抗を引き起こした。甘粛省と貴州省では大規模な反乱が発生。福建省邵武県では、1954年に起きた穀物問題に関する抗議行動が「穀物政策に対する反革命破壊工作」とされ、当局は114人を逮捕、16人を銃殺、数十人を投獄または監視処分とした。

 

反右派闘争における弾圧

反右派闘争の間、知識人を標的としたこの運動は1957~59年まで続いたが、都市よりも農村での残虐行為はさらにひどかった。多くの人々が、穀物独占の強制執行という名目で追い詰められ、死に追いやられた。

1957年、反右派闘争と並行して農村部では社会主義大討論(Great Socialist Debate)と呼ばれる運動が始まった。表向きは統購統銷政策の是非をめぐる全国的な議論だったが、許される答えはただ一つ、賛成のみだった。政策を批判した者は糾弾され、迫害され、あるいは死に追いやられた。

中国文化大革命研究を専門とする中国系アメリカ人の歴史学者宋永毅氏による研究論文によれば、1957年9月のわずか1か月間だけで、闘争中に農村部では1300件以上の自殺を記録した。湖南省では400件以上、四川省217件、山東省93件、河南省77件、河北省58件、貴州省181件、広西チワン族自治州276件、青海省11件であった。

その後の数年間、中共は大躍進運動を展開し、既存の危機をさらに深刻化させる過激な政策を推し進めた。1957~61年にかけて行われたこの運動は、西側工業大国を急速に追い越すことを目指したが、非現実的な生産目標、虚偽の報告、そして強制的な穀物徴発が特徴だった。その結果、農村部の穀物備蓄が枯渇し、農業生産が崩壊、数百万人が餓死する事態に陥った。

統購統銷制度は、大躍進政策の破滅的な施策と相まって、直接的に中華人民共和国大飢饉(1959~61年)を引き起こした。この飢饉は現代史における最も暗い章の一つである。資料によれば、この期間におよそ4千万人が死亡したとされる。

袁斌
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