弟子規 (32)
われわれが書見をする書斎は整理整頓を心がけ、壁も乾燥させ、きれいにしておくこと。大小の机も清潔に保ち、机の上の文具もきちんと置いておく。墨を摺る時は心を専一にし、墨が偏って減らないように注意する。偏って減るときは、心ここにあらずという状態になっている証拠である。字を書く時は慎重に書く。随意に間違った字を書くのは、既に心性に問題が生じている。
弟子規 (31)
読書をするには、三つの事をしっかりやる必要がある。心で考え理解し、目で見て確認して、口で唱え音読するのである。この三つは非常に重要である。この一書を読み終わらないうちは、別の一書を想ってはならない。読書の計画には余裕があってしかるべきであるが、読書の時には集中力が必要である。時間と労力を費やせば、分からない個所も自然と通じるものである。読んでいてもし心に疑問が湧いたら、即刻に筆記して書き留めておき、人を探して本当の意味を確認しておく。
弟子規 (30)
およそわが身をもって実行しないものは、本の上だけで知識を得て応用を知らないものであり、実践的ではなく、将来どのような人になるか皆目見当もつかない。しかし、盲目的に物事をやってしまって、本の上から知識と経験を学ばないものは、頑固に自分勝手を通しているだけであり、かえって本当の道理を理解できないものである。
弟子規 (29)
人間は同じように見えるが、その性情は大いに違う。大多数の人は平凡であるが、本当に徳性に度量があって高尚な人は極めて少ない。もし、本当に徳性が優れていて高い人であれば、皆が彼を尊敬する。なぜなら、彼はこびへつらって人にとりいったり、嘘偽りで人に付け入ったりしないからである。
弟子規(28)
家の男女の使用人に対するとき最も重要なことは、自身の言行を端正無私にし、かつ慈しみを厚くして度量を大きくし、苛めたり圧力を掛けたりしない。
弟子規 (27)
およそ人と物のやりとりをするとき、知るべきもっとも重要なのは、人に物を与える時は大目に、人から物をもらうときは少な目を心掛ける。人に何かするときは、まずそれを自分の身に置き換えて考え、自分がやってもらいたくないことは、すみやかに人に行うことを停止する。人から恩を受けたら、それに報いるように憶えて置き、恨みは忘れて心に置かないようにする。人への報復は短くし、人の恩恵に報いることは長めにする。
弟子規(26)
他人の欠点や過ちを不用意に宣揚してはならない。他人の秘密を知ったら、これを追及したり、いたるところで言いふらしたりしない。他人の長所を聞き及び、これを褒めるのは、一種の良い行為である。褒められた人は、これを知ることによって、さらに向上しようと励まされるからである。他人の過ちを言いふらすのは、一種の良くない行為である。もし相手が過度に批評されているのを知ったら、自分に災難を招くからである。
弟子規 (25)
自分に能力があったら、自分のことだけを考えるのではなく、人を助けることも考える。人に才能があったら、それに嫉妬したり、人の悪口を言ったりしない。お金に困っている人に諂ってとりいったり、貧窮な人に傲慢な態度をとったりしない。古いものや古いつきあいを反故にして、新しいものや新しいつきあいをよろこんではならない。
弟子規 (24)
人と人との間は、お互いに親しく愛し合うものであり、それはあたかも天が一切を覆い、大地が万物一般を受け止めて育んでいるようなものである。品行が高尚な人は、自然と名声が遠くまで及ぶが、人々が彼を尊敬するのは、彼の品行が良いからであって、その外見が良いからではない。才能に優れた人は、名声が高くなりがちであるが、人々が彼を尊重するのは、彼の能力が優れているからであって、口で大言壮語をしているからではない。それゆえ皆が称賛するのである。
弟子規 (23)
知らず知らずのうちに無意識に犯すものは「過ち」であり、知っていて犯すのは「悪」である。過ちを知って改めることができれば、それは消失してゆくが、もし嘘を言って隠し通して過ちを犯し、かつ再三にわたって繰り返すことになれば、罪はいっそう深くなる。
弟子規 (22)
もし人から自分の過ちを批評されると怒り、褒められると喜んでいれば、人を利用しようとする悪い友が接近してくるが、好意から指摘してくれる良い友は離れていく。
弟子規 (21)
真正な君子は、物質的な方面で他人に及ばなくてもかまわず、品德、学問或いは才能、技術の上で他人に及ばないときに自ら刻苦精励する。また、着ている服や口にする飲食が他人より良くなくても憂い傷つくことはない。
弟子規 (20)
周處が三害を除いた故事は多くの人々が聴き知っている。彼は生来から勇気のある人間で、水中の悪竜を退治したり山中の人食い虎を駆除したりしたが、平安な郷里に舞い戻ってみると、村の古老が不安げな顔をしているのを見て、自分自身が最後の害であることを知った。
弟子規 (19)
迦葉佛が世にあった時の話である。ある少年比丘の声は非常に優雅で、佛を賛美する歌に皆が聞き惚れていた。シャー(沙啞)という老比丘がいたが、少年比丘はこの老比丘の声が犬のようだとさげすんでいた。なぜなら彼が羅漢にまで達した聖者であるとは知らなかったからだった。
弟子規 (18)
凡そ話をするときは信用を守ることが肝要であり、嘘や出鱈目を言っていたのでは、どうしていいことがあろうか。多く話し過ぎるより、少なく話す方がよっぽどましであり、実際本当の事を話し、うわべだけのとりつくろいや巧言で人にとりいろうとしてはならない。とげとげしく冷酷な話、幼稚で世俗的な語気も現に改めるべきである。
弟子規 (17)
門に進み入る際には、まず中に誰かいるか聴いてみる。大広間に入る際は、必ず声を揚げて挨拶する。人が誰かと聴いてきたら、必ず自分の名で答える。ただ「私だ」だけだと、よその人は明確に分からない。人の物を使用する際には、必ず先にことわってから借用するようにする。もし同意を求めて得られなかった場合、勝手にもってゆくとそれは盗みになる。人の物を借りたら、すみやかに返すようにする。人が何かを自分に借りたいと申し出てきたら、貸すのを惜しまないようにする。
弟子規(16)
清代の安徽省に殷さんと柳さんという二人の富豪がいて、互いに親交があった。あるとき柳さんが病気になって危篤になり、まだ幼少であったその一人息子は殷さんに預けられて面倒を看られることとなった。
【物語】塩漬けの魚
陶侃(とうかん)という男性が、地方官として赴任していた時のことです。彼は漁業の管理をする役人でした。ある日、陶侃は人を遣わせ、地元名産の塩漬けの魚を母親の元へ届けさせました。魚が好きな母親が、きっと喜ぶだろうと思ったのです。
弟子規(15)
路を歩くときはせかせかとせず、立つ時は姿勢を端正にし、頭を真っ直ぐにして胸を張る。揖の作法をするときは腰を深く屈め、拝する態度は恭しくする。門の敷居を踏まない。身体は斜めに傾斜させない。坐るときは両脚を広げたり、貧乏揺すりをしない。
【物語】母親に尽くした男
宋という時代の頃のお話です。黄庭堅(こう・ていけん)という非常に母親思いの男がいました。彼は位の高い役人でしたが、母親の事になると、大事小事にかかわらず全て自分が面倒をみて、決して使用人に用事を申し付けたりしませんでした。
弟子規(14)
着用する衣服は清潔を重視し、必ずしも煌びやかな華麗なものを身に付ける必要はない。まずは自らの身分を考え、後に家の経済状態と折衷をはかればよい。
日常の飲食では栄養の均衡に気を付け、好き嫌いの偏食をしない。三食は腹八分目とし、暴飲暴食を戒める。年少者は酒を飲んではならない。酔って言語態度が乱れると醜態が百出するからである。
弟子規(13)
魯の哀公が孔子に訊いた。「先生が着用しているものは、儒者(注1)特有の服装ですか?」。
孔子が答えた。「私は幼少の頃より魯國に住んでいて、袖の広い上着を着用しています。後年長じてからは、宋国に住み、宋国人が被っていた黒い帽子を被っています。私が聞いている所では、有徳の君子は学習に励み、その学識を広くするものです。服装は単に俗に入るためのもので、衣冠は適当であればそれでいいのです。私は元より儒者が何か特別な服装をしているとは知りません。」
弟子規(11)
年輩者の前では声を抑えて話すが、低調になりすぎて聴きにくくなってもいけない。
弟子規(12)
朝は早くから起き、夜は多めに学習に時間を費やしてから就寝するようにする。人の老いるのは早いため、時間を惜しまなくてはならない。
弟子規(10)
路上で年輩者に遇ったら、すみやかにその前に進み出て一礼し、何も話がなかったら、その傍らに恭しく立つ。自らが馬上にあって年輩者に遇ったら即刻に馬を下りる。
弟子規(9)
飲食する時、あるいは歩く時も座る時も、年輩(先輩)者が先で、弱年(後輩)者は後になる。年輩者が人を呼んでいるときは、即刻年配者に替って人を呼びに行き、その人が不在の時には自らが手伝う。
弟子規(8)
兄姉は弟妹を可愛がり、弟妹は兄妹を尊敬する。兄妹姉妹が互いに和やかに睦み合えば、孝道は自ずとその中にある。
弟子規(7)
父母が病気に罹ったら、その子女は薬を熱すぎないか嘗めて確認し、日夜看病して病床を離れてはいけない。
弟子規(6)
父母が過ちを犯したら、それを改めるよう勧めなければならず、顔色はにこやかに声色は柔和なものでなくてはならない。
弟子規(5)
父母が喜ぶ事物や行為は、その子女が極力準備してやるようにする。